鐘ヶ嶽再訪記 山の神の守護者になるために
丹沢に通いつめたことがある。あれは山ガールという言葉が流行る少し前で、週末になると、登れそうな適当な山を探しては登りに行った。
中でも印象的だった山が鐘ヶ嶽だ。
鐘ヶ嶽。標高561メートルの小さな山。厚木市の観光情報のページにはこんなふうに書かれてある。
山の神の名残は至る所にある。石碑。石仏。巨大な奇石。石鳥居。圧巻は、氏子と信者一同と14人の七沢石工が完成させたという石の階段。長い石段を登り詰めると、浅間神社が現れるというおまけ付き。
先人たちが寄せた信仰心がひしひしと伝わる山だというのに、おそらく、私が登った丹沢の山の中で一番、人々から「忘れ去られた」山だった。
山ガールになりそこねたかつての私が、最も印象的、と感じたのはそのためである。
私は鐘ヶ嶽登山から、忘れ去られた山の神の怒りを感じて、畏れた。七沢温泉に行くはずだったのに、動転して忘れて、来た道を走り戻った。(※)
それからというもの、鐘ヶ嶽は丹沢の中でもっとも気がかりな山となったのだ。行楽シーズンになる度に、多くの登山者がいることを願った。石巻から神奈川に戻ってきて、本格的にイングレスというゲームを始めた時、一番驚いたのはこの鐘ヶ嶽のことだった。
なんと山をポータル(陣取り地点)にすることを禁止している陣取りゲームだというのに、鐘ヶ嶽の山頂がポータルになっている。
(多分山頂の石碑のせいだ。あれが遺跡か芸術作品とみなされたか何か・・)
イングレスというゲームはアプリの中だけで完結せず、実際に現実のポータルに出かけることが前提となるため、ゲームを町興しに利用しようという動きさえある。鐘ヶ嶽にとっては、登山者が増える良い機会となるはずであった。ところが、これが何とも言えない複雑な心境になってしまったのである。
(※)その時の記事
行者と鈴と鐘ヶ嶽 ~熊鈴を付けて里山を行く~
「山の神」など知らぬ不躾なものが押し寄せるのではないか、とか。あの鐘ヶ嶽を、敵の陣地にされてしまうのは嫌だな、とか。幸い、丹沢一帯と鐘ヶ嶽は自勢力の青色に染まっていたため、私は一安心をしたのであるが、つい先日のことだ。鐘ヶ嶽が敵陣に獲られた、という話を耳にした。ガーディアンの黒メダル(150日の防衛メダル)狙いかも知れぬ。鐘ヶ嶽の緑色はどことも繋がらずぽつんと点在していた。なんと可哀想に。現実でもゲームでも忘れ去られた存在となってしまう。せめてどこかと繋がっていたら心も穏やかになったものを。
私は鐘ヶ嶽に出かけることにした。
不思議なものだ。イングレスというゲームがなかったら、二度と登ることもなかっただろう。可哀想に、などと思いながら、おそらく永遠に、その地へ赴くことはなかっただろうに。
鐘ヶ嶽までは、自転車で行くことにした。246号線を南下すると、丹沢連峰が正面に現れる。
相模川を渡るところ。いい眺めですな。
厚木市外を越えたあたりか。正面に鐘ヶ嶽がクリアに見えてきた。
鐘ヶ嶽を見ながらどんどん進む。もう登山が始まっているような思いだ。昔の富士講や大山講はこんな感じだったのだろうか。山を登ることだけが登山ではないのだな、と改めて実感する。
む? 何やら人が多くなったが?
「あんまりそわそわしないで」。ラムのラブソングが聞こえてきた。七沢のトンネルを越えたあたりで思わぬ人々の群れに遭遇する。「うる星やつら」の主題歌に釣られて、ふらふら向かっていくと、森の民話館前は屋台が並び、猪鍋(100円)やふかし芋(無料)が振舞われていた。栄養補給と私も猪鍋をいただく。味噌味でお野菜もたっぷりで美味しい!体が温まった。これでまだまだいけそうである。
大喜びをしたものの、この人の群れが後にとんだ災いを起こすことになるとは。この時には気づく由もなかった・・・
途中で熊野神社に遭遇。ポータル申請していく。
鐘ヶ嶽が近づくにつれて、私はある矛盾に気がついた。山の神も知らぬガーディアン狙いには任せておけぬ、と鐘ヶ嶽に向かっているものの、という私もガーディアン狙いであり、仮に鐘ヶ嶽ポータルをゲットしても、きゃつをどことも繋いであげられぬではないか。
それではダメなんだ。いくら高みに行ってもダメなのだ。一人ではダメなのだ。私は鐘ヶ嶽が近づくにつれ、山頂に行った時に備えて、リンクを張るためのキーを集め始めた。また、敵の邪魔になりそうなリンクを破壊していった。これが思わぬ時間を取られて、お昼には山頂に着いているはずの予定だったが、まだお昼になっても登り始めていないという事態になる。
やっと登山口入口だ。心なしか、以前よりも整備され、綺麗になっているようだ。
鐘ヶ嶽は山自体が御神体のようである。登山道はすべて参道ということで、山の入口にどかりと鳥居が立っている。ここで、若めの男性と遭遇した。お先にどうぞ、と私に道を譲ってくれるというかのように、入口で足を止めた。良かった、人がいたことに安心した。一人じゃ恐ろしいから午前中のうちに登ってしまおうと思っていたくらいだ。ところがもうすっかり午後である。この時間から鐘ヶ嶽に一人ではいるのは嫌だな、と思っていた矢先だった。救われた。そう思って、しかし、途中から疑心暗鬼に陥った。
もしかしたら、同じ目的のために登ろうとしている人ではないか?
この辺りからスマホの電波が入らず、ゲームのアプリが立ち上がらなくなっていた。山頂に着く頃には入るだろう、と楽観的に思ってはいたものの。既に青ポータルに変わっているかもしれぬ。彼は敵かも知れぬ。さもなければ、わざわざ鐘ヶ嶽に登る物好きというのは・・・いるのか。
私にとって、鐘ヶ嶽は人々に忘れ去られた山の神そのものだった。
鳥居をくぐってしばらく歩くと、人と獣の境界を分ける柵がある。以前はこの柵が壊れていた。それで、もはや柵は必要ない、(なぜなら鳥獣はハンターが皆殺しにしたからだ)とでも言われているような気持ちになり、いや、実際そういう張り紙もあったのだが、とても不快な思いがしたものだ。それが今回はまともな電気柵ができている。良かった。とりあえず、動物たちは生かされているようだ。
電気柵の後から始まる本格的な山道、鐘ヶ嶽の登山道の見所はやはりこの石像だろう。1丁目から山頂の28丁目まで石像と石碑が続いている。
親子連れと通りすがる。驚いた。思えば蛭も出なくなる行楽シーズン。人がいて当然ではあった。この日鐘ヶ嶽で出会った登山者、総勢13名。彼らは、鐘の音を高鳴らして、私とすれ違っていった。私は小さな鈴の音である。伊勢神宮で手に入れた薄紫色の鈴。それを鐘ヶ嶽に響かせることが唯一の手土産。それにしても、前回の(行者)0人と比べてなんと多いことよ。おかげで、異形の者の気配を感じることも全くなく、のどかな登山が楽しめた。
鐘ヶ嶽の肩の部分。見晴らしもよく、奇石に石碑も多い。先人たちの信仰の跡がまさに多く残されている重要な箇所だ。
地獄の18丁目(?)を超えた。私が恐れていたポイントだが、3人の親子連れに、登山道入口で出会った若めの男性、その他通りすがる登山者たちとの出会いが私を勇気づけてくれていた。また前回と違い、草が刈られていて(木々が間引かれたのかもしれぬ)、見晴らしの良い登山道になっていたことも要因かも知れぬ。
18丁目を超えて、さて、鐘ヶ嶽の最後の山場だ。この登山道のクライマックスの長い石段が現れた。途中出会った親子3人の登山者はここを登れるだろうか、ふと振り向いて、姿の見られなくなった彼らを思う。父親(もしかしたら祖父)は鐘ヶ嶽の肩の部分で、「やった!山頂に着いた!着いた!」と喜びの声を上げて、そこが山頂ではないと知るとえらくがっかりしていたものだ。その彼よりもさらにペースの遅れている婦人と子供は、どうしたものだろう。
なんとも素晴らしい奇石。石碑。石像。石段。中には崩れているものもあるが、鐘ヶ嶽の石の世界は圧巻だ。
この石尽くしの見所を超えると、浅間神社の鳥居と赤い社が現れる。この景観がまた何とも言えぬ。浅間神社は富士山を神格化した神を祀っている神社であり、富士信仰と殆ど同じものである。尊い山の神だというのに、前回、私はこの浅間神社と対峙して、鳥肌が立った。ただ怖かった。その時の記憶が蘇るのである。なんと違うことよ。今は、整備されて、景色が開け、人びとが訪れて、こうしてまた対峙する浅間神社のなんと美しいことよ。まるで光が差し込むように社屋を照らし、目にキラキラと眩しく映る。今度の震えは、恐ろしさじゃなく、感動からだ。私はわななくように最後の石段を駆け上がり、山の神と対峙した。わぁ! 来たよ。来たよ、と。
浅間神社の横の見晴らし箇所には、新しい石碑が作られていた。東の先に東京スカイツリーの場所を表すもの。そうか、新しい名所ができたのだな。鐘ヶ嶽は東京スカイツリーを見渡せる絶景スポットになったのだな。肉眼でかろうじてその姿を拝むことができるほどの。小さな小さな東京スカイツリー。それがどれほど嬉しく感じられたか、筆舌に尽くし難い。
「こんなところがあったのですね。知らずに帰えるところでした」
ポータルの山頂で食事をしていると、あの登山道の入口で出会った若めの男性(・・随分この方の存在により救われた)がやって来て呟くように言う。浅間神社が終点かと思ったようだ。ああ、山頂も知らぬ人が山頂のポータルを狙っているなどと、よくぞ疑心暗鬼に陥ったものだ。ただ単に道を譲ってくれる優しい人だったというのに。
山頂ではもうひとりのお客様と出会った。先の一人が帰る頃、まるで入れ替わるように現れた同じような若めの男性。ただし長い髪の毛にジーパン姿ではない。七沢温泉よりの登山道から、モンベルの上下にストックを突いて、本物の行者のような出で立ちで現れた。
「スマホの電波が入らないんですよね。あなたもですか?」
そう、彼こそが本物のエージェント、同じ味方の戦士だったのである。
染まり始めた紅葉に、落ち始めた夕陽に。秋めく景色を見つめながら来た道を戻る。結局今回も七沢温泉にはいけなかった。タイムアウトだ。あとは厚木に寄って、大好きな苺のポータルを眺めて帰るとしよう。
この日の収穫は無に等しい。結局最後まで電波は戻らず(同士のエージェントによると、七沢の森の祭りによって多くの端末が集中したため「輻輳」と呼ばれる現象が起きてしまったのではないかとのこと)、鐘ヶ嶽ポータルはハックさえできなかった。集めたポータルキー・・・鐘ヶ嶽を孤高にさせないためにリンクを張るためのもの・・ は使えずじまい。どちらにせよ、電波が戻った後で確認したら、味方のリンクも邪魔をして私の集めたキーは使えるものではなかった。ガーディアン候補もおじゃん。ひとりぼっちの鐘ヶ嶽は救えず。複雑な思いは拭えず。
それでも、あの山頂の鳥居を見た瞬間の、心の震える想いをどう伝えたらいいだろうか。まさかこんな時が来るとは思わなかった。同じように、鐘ヶ嶽を救いに来てくれる人のいたこと、多くの登山者に出会ったという喜びに。そうそう、心配していた三人の親子連れは、随分遅れて浅間神社に現れた。別れ際、三人での写真を撮りましょうか、と申し出ると、大袈裟に喜ばれたものだ。小さな子供が振り向いて手を振ってくれた。「どうもありがとう!」
風が冷えてきた。登山道入口に置いてあった自転車に乗る。地元の農家の人らしき年配の男性に出会った。こちらを見て、まるで私を知っているかのように笑っている。
「どうでしたか、スカイツリー見えたでしょう」
「はい見えました」
「今日は人が多かったでしょう」
「最近は登山者が多いのですか?」
「そうですね、結構いますよ。この頃は平日もよく登っているみたいだし」
「良かったです」
自転車を引きながら彼の顔を見ると、果たせるかな、老人は顔をしわくちゃにして笑った。うん、うん、と大きく頷いて。
イングレスの唯一の山、鐘ヶ嶽ポータルにどうか多くの方が訪れてくれますように。多くの行者が。不躾ではないものたちが。
そして私もまた行こう。あの山の神と一緒に、生きていくのだ。