行者と鈴と鐘ヶ嶽 ~熊鈴を付けて里山を行く~


 
 「熊鈴騒音」というものがあるそうだ。
 年配の女性のグループがみな熊鈴を身につけて山を登る。多くの鈴の音が響きわたり、周りの登山者たちの迷惑になると言う。静かな山の雰囲気が台無しだ。あきらかに熊のほうが遠慮すると思われる登山者の多い山でもこれをやる。熊はそもそも嗅覚が発達しているので、鈴など鳴らさなくても人の匂いを嗅ぎ取ることができる。無用(かつ無効果)なことを、熊対策に有用だと思いこみ、もしくは思い込んでいなくても、グループのみんなが付けているからという理由だけで付ける。なぜ付けるのか、他の登山者の迷惑になるのではないかなどとは一切考えない、「安全と言う大義名分に隠れた傍若無人な振る舞い」という意見もあった。
 熊にナイフ、と思い込んでいた無知な私には、目からうろこの話だった。
 そうか、鈴を付ければ、熊が避けてくれるのか。思い出したのは富士登山の金剛杖である。鈴の音を山で聞くときは、いつもあの夜明け前の、霧の中の、行者の列(行進)のような景色が目に浮かぶのだ。
 鈴の音は私にとっては、神と自分とを繋ぐものの象徴である。
 今回鈴の音のことをあれこれ考え、自分の中の概念を裏付けたくて、いろいろ調べているうちに、鈴の音は神聖なものであると同時に魔除けになるということ、また、お遍路に使う金剛杖(やはり鈴が付いている)が「杖より先に自分を休めるな」「汚い所に置いてはいけない」といったふうに杖を神の化身のように扱っていること、実際、お遍路ではその昔「遍路の途中で倒れた時に卒塔婆の代わりになるものだった」などということを知った。
 そこで私は反論したかったわけだ。
 熊鈴派のおばちゃんたちだって、騒音はわかっている。だけど、ファッションではなく、彼女たちは、神に近付く思いで鈴の音を鳴らしているのだ!と。
 熊よけだけの想いではきっとない。 なぜ若者にはわからないかなぁ。
 と嘆いた後に、私は「熊鈴」を販売するたくさんのサイトを見つけてしまう。で、肩を持ったとたんがっかりしてしまうわけだ。お洒落だったり便利だったりより良い鈴の音だったり。鈴自体が商売としてこれだけ成り立っているという事実が、やはり若者のいう通りなのかなぁと。神と繋ぐものなどという想いなどさらさらなくて、傍若無人な振る舞いなのかもしれないと思えてしまう。
 おばちゃんが集団だと言うところも、その可能性を否定できない面である。
 人でも国でも、数が増えれば厚かましくなる。大きくなるほど、その圧力で少数派の口を封じ込めてしまうのだった。
 とりあえずは熊に自分の存在を知らしめるために、鈴が必要だということを知った。
 静かにしていてはやられる時がある。自分の存在をアピールすれば身を守れるわけである。
 私はこの問題から、ここ数日考えていた尖閣諸島の問題を思い出さずにはいられなかった。中国側が漁船の船長逮捕に抗議したこと。そして、11日には、沖縄本島の西北西約280キロの日本の排他的経済水域(EEZ)内で海洋調査中の海上保安庁の測量船が、中国政府の船舶から中止要求を受けたことなどを。
 どうやら中国の鈴の音はとまりそうもない。


 アマゾンに注文したナイフはまだ届いていない。
 今週も山に行きたいのである。まさか今回は熊の出る山ではないだろうと思いながら、私は知人からアドバイスを受けた鈴を身につけて出かけることにした。
 鈴で良かったなんて意外だった。アマゾンに返品を申し込みたい気分だ。鈴の音を響かせながら、私は厚木の町を歩いている。目の前にはこんもりとした鐘ヶ嶽が見えている。山頂には七沢浅間神社があるそうだ。(天台宗の寺跡の石碑も残っていた)大山もそうだったが、山と修行というのは切り離せない。山のあるところには神がいて、行者がいる。
 私は神聖な気持ちになっているのだ。鈴の音というのは、今回たまたま熊よけで身につけたものだったが、私にとってはそれは「神とを繋ぐ音」だった。まるで自分を行者のように感じながら、鐘ヶ嶽登山道の入口に立って、鳥居を見上げている。
 
 
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 ここで初めて、「行者の自分」を楽しむような浮ついた気持ちが飛んで行った。
 鐘ヶ嶽の登山道入り口はのっけから石段に鳥居で始まるのである。大山だって参道が始まるのは登山道終盤だが、これではまるで山自体が御神体ではないか。私は「山神」というものをここで初めて意識して、身を引き締めたのであった。日頃の神社の神々をお参りするのとはわけが違うようだと。
 すると、先ほど見かけた山の姿が脳裏に浮かんでくる。あの山が鐘ヶ嶽だ。あの大きな存在の中に私の小さな身一つが入り込むわけであった。
 鳥居を抜けて、日照りのせいで赤く枯渇したような杉林の中を歩きながらその想いを強めている。たぶん登山者は私一人だ。丸太も石も岩もなく自然のままの登山道。ガイドブックにはシカ避けの柵を必ず閉じましょうと書いてあったが、それも開けられたままで、締めようにも反対側の(閉じる側の)枠すら存在していない。あとで、帰りによく見て知った話だが、参道の前には市からお願いの立て札があり「この付近は銃器による有害鳥獣駆除を行っておりますので、ご協力お願いいたします」。すでに柵などしなくても、鹿はいないのだ。彼らは銃器で駆除されているのであった。
 鹿柵は必要なく、解放されている。
 熊に注意の張り紙は風化していた。
 熊鈴などいらなかったというのに、私は誰もいない山に一人入りこんで、鈴の音が高くなるように鈴を突きながら歩いている。
 先日の大山よりもよほど熊が出そうだなぁ、などとのんきなことを考えて、護身用の鈴に救われた思いでいたのだった。

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 登山道の雑木林には1丁目から28丁目までの石碑が建っていた。穏やかな顔の大日如来像や中には修羅のような険しい顔の石像もあった。
 私はほぼ百数十メートル間隔であらわれるそれら石像に手を合わせた。
 「いつもありがとうございます」
 石碑には建立された年、文久44年など―(また私は見つけられなかったが天保2年の山神の祠もあるようだ)が書かれていて、石像の顔も彫が風化のため潰れたものも多かった。随分古いものだと思われた。きっと昔から、この山は地元の守り神として在ったのだろう。地域に根付く小さな里山はしかし、今は私の他には誰もいなかった。
 守り神のことを思い出す老人たちはすでに山に登れなくなったか、この世にないのではないか。若いファミリー向けの山でもなく、平坦な登山道だというのに険しく、いや厳かな雰囲気なのだった。ガイドブックを見てやってくるもの好きな旅行者しか、今は登らないのではないだろうか。
 それでも私はずいぶん自然を楽しんでいた。フィンチドットは血圧を下げます、森林セラピーでリラックス、などという厚木市産業振興部の立て札を見つけて、微笑ましく思っていた。
 確かにこれは体に良さそうだ。1時間10分で登れる山で、これだけ自然を満喫できれば大したものである。先週の大山と違い、人の匂いがまるでしなかった。柵に囲まれた若木もなく、青いドングリは見えても、ドングリのなる木が見えない。はるか上のほうに葉が見えて、私はその高い木がコナラかミズナラか、それとも手前のシラカシが落としているのか、どうしても確認できないのだった。
 熊の怖さも石像を撮るのに夢中で忘れてしまった。石像も、古い石碑も、美しかった。もう私にとって鈴の音は神との交信のただそれだけのために響く音のようなものに化していた。
 魔除け(熊よけ)などとんでもない。

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18丁目で展望が開け、厚木市街を見下ろした後、振り向くとふいに木々のトンネルが始まるのである。くぐるように進む。今までよりも急な登山道が始まる。
 不思議なことに、ここから音が止むのだ。先ほどまでうるさかったセミ(クマゼミのような騒音だった)の声も、鳥のさえずりも。ドングリが落ちる音。木々を揺らす風の音。
 空気がさっと変わった。霊感には鈍い私も、この変化にははっとさせられたのだった。
 明らかに異形の者の匂いがする。
 
 神なのか、怨霊なのか、そこまで感じることは出来なかった。ただ、私は大事なカメラを二度も落とし、変形したのかピントリングを動かしづらくしただけだった。
尾根伝いの稜線のような左右がくぼんだ道を渡る。山桜の木が迎えるように現れる。ポツリ、ポツリと。身をくねらせて佇んでいるのだった。
 大きな石の上に立つ榊の木を見た。天台宗寺跡の石碑に仏像。
 圧巻だったのは、石段だ。登山道入り口の石段と同じような、それよりもっと長い石段が、その先ずっと続いてくのだ。私はこの行者の山道のクライマックスだととっさに悟った。自然の景色は石段によって、やっと人の気配を取り戻し、だけど、まるで石が崩れ落ちそうに風化して、落葉で階段が隠れるほどのその様子は、あまりにもこの地に人が消えて久しいことを感じさせられるのだった。
 これも帰りに工事完成の記念の石碑によって見知ったことだが、この石段は地元の石工に作らせたものだそうだ。古くからの参道の階段が破損して昇降困難となった。そこで千葉のある信者の一族の協賛を仰いで、補修工事を行った。当時にしてはずいぶん立派な、石段だったのではないか。石碑から誇らしげな様子が見て取れるのだった。
 だからなのか、延々と続いた石段の果てに現れたまたしても鳥居の、くぐるとすぐのところには、協賛を仰いだという信者一族の名前の入った小さな石像がもたれかかるように置いていある。一族の名字と、下の名前は男性の、一族のある一人のものであった。軍服を着て、白目をむいている。何度も見ても、黒目はないのだ。目の形のくりぬかれたそれは、どこを見つめているのか。一族が戦死した息子を祀りたかったのか。もしかしたら学生服だったかもしれない。ただし、私には軍服に見えたし、明らかに異様に映ったのだった。

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ばく大な個人のお金と、祈りをかけて、この煩悩の数さえ超えた浅間神社まで続く石段は完成させられた。登りはどうということはなかった。しかし下る段になって、手すりもなく、石が年月と共に下りに向かって傾斜して、さらに現代の階段よりも幅の狭い(私の小さな足さえも縦には置けなかった)石段は、とてもじゃないが危なくて降りられたものではなかった。
 しかも、去年の落葉樹が、いや、もしかしたら一昨年や一昨昨年のものかもしれない、落葉樹の葉が積み重なっている狭く傾斜した石段は風情も歴史も何もなく、ただもう滑りやすく、危険であって、いったいどんなもの好きがこの段を登って、神々を祀ると言うのか、地元の人はもはや危険性を知り尽くしているだろうと思われるばかりであった。
 かといって、直せるものか。一族のあるご子孫の石像をどうするというのだ。あの鳥居の真下にもたれかかる白目をむいた彼の。

 私は正直、石段を登って、鳥居の姿を見た瞬間に呟いた。
「これはこれは・・・」
 なんと間抜けな感嘆詞! 神聖なるものに対する敬虔な気持ちなどこのときには残されていなかったのかもしれない。鳥居の奥に赤い本殿が見え、それが私と対峙して迫ってくるときに、私は思わず石段を登る足をとめたほどだ。
全身に鳥肌が立っていた。それほど、畏ろしかったのだ。

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 山頂で食事をするはずだったが、ここも1分といられるところではなかった。
 戦国時代にこの近くに七沢城を築いて、この山に鐘を収めたとされる上杉定正の像なのか、ついに近寄ることができなかったが、まるで落武者のような石像が二体立っていて、片方の者には腕もないのだ。展望もない。わずかな丸太(ベンチのつもりらしい)と帰り道の登山道が先に見えているだけ。先ほど身を震わせた七沢浅間神社のほうがまだましだった。
 私は浅間神社の境内の切り株に座り、厚木市街の展望のほうを向きながら、弁当をかきこんだ。食べた気もしないほど、大急ぎで半分食べて、すぐに荷をたたむ。逃げるように、先ほど記述したあのまるで転げ落ちそうな風化した石段を下って行ったのだった。
 駆けるように下っていく。また山の全体像が脳裏に浮かび、今度こそはあの山に存在する「人間」が私一人だと確信している。
 知人に言われて、鈴を持ってきたことを幸運に感じていた。
 行者の鈴でありながら、これは今魔除けの鈴であった。もちろん熊などいない。熊鈴など馬鹿げていた。だけど、わざわざ突かなくても、急ぐ私の腰のあたりで、鈴は大きな音を鳴らしているのだった。
 18丁目のあの異形の匂いを感じ取った木々のトンネルを抜けると、またしても森の音が戻ってきた。セミに、ツクツクボウシの鳴き声。のどかな夏の山でしかなかった。
 私は息をつきながら、何度も、何度も、あの浅間神社の鳥居の下で、本殿のまえで、東西南北に頭を下げたことを思い出している。
 ここに神はいると言うのに、私は彼の安らかな眠りを妨害して、叩き起こしたような気持ちになっていた。
 「いまさら何をしに来たのだ」と。
 それを怒られそうで、畏ろしくて、申し訳ない思いでいっぱいだったのだ。

 ここに神はいると言うのに、週末の日に祀りに来る者はいない。(こんな小さな私だけなのだった!)
 彼へと続く参道の石段はとうの昔に風化している。
 彼のしもべの者たちは銃器によって消されていた。
 
 私は本殿の鈴を小さく鳴らした。それでも私の来たことを知ってほしくて、しかし彼の眠りの妨げにならないように。
 あれだけ高鳴らした音も、そのときだけは神妙なものであった。
 
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 登山道入り口の鳥居まで来たときに、私は行きの登山コースをそのまま戻ってきてしまったことに初めて気が付いた。本当は、山頂から続く登山道に入って、鐘ヶ嶽をぐるりまわる形で戻らなければならなかったのだった。
  よほど、怖かったのか、動転していたのかもしれない。帰りのコースで七沢温泉に入ろうと思っていた計画もおしゃかであった。
 今回の小さな撮影旅行で、私が思ったことは、土地と共に生きていくことの、その難しさだった。
 守り神はどこの地にもいるだろう。
 ただし、あれほどに放置され、忘れ去られたものがまだ私たちと共にいて、神として守り続けてくれるものか、私には正直疑問に思えたのだった。
 
 もしも鈴を持っていなかったら― そう考える自分がいた。
 もしも誰か人がいたとして、私は獣と間違われていたかもしれない。いや、でもしかし、銃器を持った人などいなかった。あそこにはあの時、私だけしかいなかったのだ。
 もしも鈴を持っていなかったら、のこのこと行者のつもりでやってきた能天気な私を山神は赦してくれただろうか。
 ふとその姿を変えて、まるで異形の者の匂いを感じたように、山神ではないものとなって、怒りを露わにしたのではないか。

 ファンタジー過ぎるだろうか。
 ならばあなたも、鐘ヶ嶽に行くとよい。
 鳥肌を立てずに、あのものと対峙できるかどうか、自分で試してみるとよいのだ。
 



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