小泉農相と「ノルウェイの森」(再読)。

 

 小泉農相のお膝元の三浦市で自民推薦の現職が落選したそうです。多選批判が大きかったとのことですが、自民党の逆風を思い知った形になったのではないでしょうか。

 このすぐ後の横須賀市長選も怪しくなってきましたね・・・

 最近、若者が議員に推し活をして話題になっていますが、自民党は選ばれそうもないという・・ お遊びでも回避されそうな熱の冷めようです。

 人気のあるはずの小泉農相でもダメならどうしたらいいものでしょうかね。


 そんな政治的期待が末期症状のニュースを見ながら、私は若者が熱かった時代の物語を37年ぶりに再読しました。


 かつて若者が、真剣に、世界的な政治の風潮や大学問題の紛争に入れ込んだ時期がありました。学生運動が盛んだった1969年。反社会的な若者文化が人気があり、ロックの黄金時代でもあり(大きなフェスがあり、才能豊かなアーティストが何人も死にました)、たびたび文学のお題にされる「お決まり」の年でもあります。

 

 「それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。」

 村上春樹さんの「ノルウェイの森」です。

 



 ノルウェイの森(村上春樹)


 【あらすじ】

 限りない喪失と再生を描く究極の恋愛小説! 

  暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。僕は1969年、もうすぐ20歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。

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 ・感想は・・

 よくもこう一人の人間にこれだけの出来事が降りかかるものだ、と驚かされました。

 全く平凡ではありません。若くしてこれだけの経験をした方が作家になったというのならば、これはもうなるべくしてなったのだ、と思わざるを得ませんでした。

 全く、体験的には共感できないはずの非平凡な物語がなぜこう売れたのか、(世界の中心で愛を叫ぶに抜かれる前は、一番売れた恋愛小説だったそうです) と不思議に思いますが、バブル期にこの小説を読んでいることはある種のステータスだったと思いますし、共感体験とは別に多くの方々に深い憧憬や感銘を与えたのかも知れません。魂が呼応するという出来事が起きたのかも知れません。

 1969年というのはそういう年なのかも知れません。

 特に、私がうまいなぁ、と思ったのは、村上春樹さんの冒頭からの小説の構成の手法で、37歳である僕が19歳の僕のことを思い出し、その19歳の僕がその前年と17歳の僕を思い出すという、つまり記憶の記憶の記憶の中に潜り込んでいくという段々と不確かな夢のようになっていく世界の描き方をとっていることです。

 よく、夢の中で夢を見る夢を見て、その夢の中でまた夢を見るという夢の階層のお話がありますけれど、あれとよく似た手法で、段々と現実感が薄れていく、不確実性が増していく展開と構成が素晴らしいと思いました。

 私の予想ですが、物語のラストはまた37歳に戻ってくるのではないでしょうか。(このラストがいつどこであるかはちょっとした謎みたいなのですが・・)ノルウェイの森の音楽でスイッチが入り、記憶の旅をして、直子(死の象徴)から緑(生の象徴)まで行って帰って戻ってきた。それだけを書いた物語ですが、奥が深くて、隠喩や掛け言葉を駆使していて、死についてかなり深い考察をされている。なかなかどうして、一筋縄ではいかない、読み応えのある小説だと思いました。


 ・印象的な部分は・・

 二つの言葉が心に残りました。

 一つ目は、「死は生の対極ではなく、その一部として存在している」というものです。

 友人・キズキや、恋人の直子や、初美さんの死によって、僕の中の一部が死んでしまった。死は、決して、いつか訪れるものではなくて、生きながら与えられるもの。じわじわと生を侵食していくものであるという認識。

 その死と生が同居する、生きながらに失われていく生き方が哀しく感じられました。

 また注目すべきは、誰かが死ぬたびに、喪失部分は大きくなり、それは、決して、他のものでは変えられないと書かれていることです。

 真理や、誠実さや、強さや、優しさをもってしても、愛する人を失った哀しみを癒すことはできない。

 Amazonの本のあらすじに、喪失と再生の物語!と書いてあるんですけれど・・ 安易に再生とか使いますけれどね、村上春樹は再生したとは言っていないですよね。


 そうして二つ目の言葉は・・・。

 「自分に同情するのは、下劣な人間のやることだ」というものです。

 この言葉はカースト最上位の東大生、永沢という年上の友人が放つ言葉です。僕はこの言葉により、内部の世界で死の淵まで行きながら外部の世界に戻ってくるというそのきっかけを与えられるわけですが、なかなかいい言葉ですよね。

 私は自分に同情してばかりいますので、ドキッとさせられました。下劣だったと反省いたしました。さすがに人生何回転も転生して生きている村上春樹(おそらく輪廻の数が多いだろうという予想ですが)はすごいと思いました。

 あと印象深かったのは、京都の阿美寮(病院)の風景でしょうか。コミューンのような療養施設ですが、深い田舎の森の奥で、そのひっそりとした静けさ、草がしっとりと濡れる感じ、風の音、白い雪、全てが良かったですね。

 その森の中で直子は死んでしまうのですが・・・

 

 ・最後に・・

 37年前に読んだ小説ですが、当時の印象では、直子が濡れないというシーン(おそらくそれが全ての根源)と、緑の生命力の生き生きとした姿しか覚えていないんですよね。

 今回は喪失の絶望さがやけに心に沁みて困りました。

 どこにいるかもわからなくなりながら、それでも生の象徴である緑の元へ戻ってくる。緑を呼び続ける主人公が哀れで愛おしくなりました。

 

 ・そして小泉農相は・・・

 そして、冒頭のコメ大臣のお話に戻らせていただきますが・・

 どうしてなんでしょうか。小泉農相。村上春樹の書くような深みのある人間たちとちょっと違いますよね。どうも上部だけしか見れらないというのか、奥行きが何も見えないというのか。

 大変失礼なことを言って申し訳ないのですが、もう少し、本でも読んで出直してくれないものでしょうかね・・ノルウェイの森、ベストセラー本だけあって、古本屋でたくさん売っていますから。

 そして、できることならば、村上春樹さんに農相を・・・とまでは言いませんが、せめてこの物語のように、失うこと、生きること、について一度立ち止まって考えてみてほしいです。

 コメ問題はこの国で生きることそのものですから。

 

 そして、私たち一人一人もまた、喪失を抱えて歩いている存在です。ノルウェイの森を再読した今、あの緑のような誰かを思い出した人もいるかも知れません。

 若かった頃の記憶を辿りながら、今どこに向かうのかを見つめなおすこと、それがこの時代に「ノルウェイの森」を読む意味なのかも知れませんね・・



 今日も最後まで読んでいただきどうもありがとうございます。


 素晴らしい人生の1日となりますように。

 心を込めて。




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