滅びの道と信仰の山 ~大山を登る。その5~







   


  「ドコモと山にでかけよう」

  大山ケーブル駅でバスを降りて、観光案内所に向かう途中で、NTTドコモのガイドブックを見つけた。
  思わず手に取ると、今やケータイは「登山の必需品」だそうで、「ドコモがつながるところ増えています」とのうたい文句の後に、GPSや天気の確認、山頂コールに写真を即ブログにアップできる等と様々な機能を紹介している。
  「山ガールのための厳選スマホアプリ」というリストもあり、それらアプリの機能は更に充実している。近々スマートフォンの購入を決めていた私は思わず一冊もらって帰ってきたのだが、登山口でのこの一件で、出ばなをくじかれた思いがしたことは否めない。
  丹沢登山用の分厚いガイドブックを置いてきて、せめて良かった。
  地図とコンパスを取り出して、儀式的に方角のセットを行うが、直ぐに仕舞い込み、見るでもない。どうせ、わかっていたことだ。本格的な登山をしたかったわけではない。体がなまっていたから、山登りがしたかった。新しい広角のレンズも試してみたかった。だから昼近い時刻に、観光地化した大山を選んでわざわざ来たのである。今の私にこそ、地図やコンパスよりも、ケータイの方が似つかわしいというのに、そう現実を受け入れて合理的に納得しても、どこかで腑に落ちない違和感を感じている。


  自分が化石のようである。


  かつての私ならば、なぜケータイよりも地図とコンパスの方がいいのか、明確に答えられた。


  今はスマートフォンが欲しいと思っている。 

  化石だからうまくいかないのか、それともそう感じて、機能性重視の時代に似つかわしい自分になっていくからうまくいかないのか。

  ここ最近の不調がどちらに起因しているのか、(不調は確かにその迷いのせいだと思われるのだが)まるで脱原発と原発推進の、どちらが今現在の日本の為に正しい選択なのか、とでもいうような、究極の答えを問われているような思いがする。

  今すぐ脱原発に偏れば日本の体力を奪う。だからと言って原発推進はありえない。が、脱原発を叫んで日本の方向性を限定することには正直疑問を覚える。だからと言って原発推進は・・と堂々巡り。コロコロ変わる日本の首相の主張のように、答えは定まらない。
  勉強が足りないせいもあるが、理論ではなく直感的に、どちらを選んでも怪しい、危ない橋だと感じている。どちらかに偏ろうとしている今の風潮に疑問がある。第三の選択肢がある筈なのに、未だ見えてこない。



  ところで、ブログを書き始めてから、初めてだ。
  書きたいことがなくなった。

  書くこと(ネタ)がないことは多々あったが、書きたいことがないことなど今まであった試しがない。
  これは末期症状だな、と自分で自分に戦慄してしまう。
  ずいぶんと変わり果てたものだ。



  大山は信仰の山である。
  観光地と化した、と先ほど揶揄するような書き方をしたが、私はこの山で何度か霊的な・・とまではいかなくても啓示を授かるような、体験をしている。
  もしかしたら、今の行き詰った、白黒付けられない問いを突き付けられているような状態の私にも、何かしらの啓示や暗示を与えてくれるのではないかと少なからず期待していた。

  もしくは、今の状態の自分が、どう感じるのか。

  今日の山登り自体をどう感じるのか、肉体的に厳しいのか、楽なのか、気持ち的にはどうなのか。そのことによって、答えも見えてくるのではないか。
  なまった体と新しい広角のレンズを抱えて、先を急ぐ。
  とりあえず、山の中腹の阿夫利神社下社までケーブルカーで行こうと考えている。今まで私は大山でのケーブルカーを「ずる」だと考えていて、利用することを拒んでいた。(夜道だとか、体力のない同行者がいるとか仕方ない時だけだった)なのに、抵抗なく今回利用できたのは、時間がないこと、体力が落ちていることへの配慮と、そして、ある種の諦めがあったようだ。
  私の裡では下社までを「山を楽しむ」過程とし、下社から山頂の本社までを、「啓示」を受ける山岳修行の過程のように捉えていた。もはや山道を楽しむことを諦めて、即、審判を仰ぐとでもいうような焦りの気持ちを抱いていたようだ。
  その割に私は、短縮した時間で、登山の帰りに温泉に入ったり、名物の湯葉入りのうどんを食べたりと、ずいぶん大山観光を楽しませていただいたのだが、それは後の話。
  今は余裕がない。新たなラウンドに突入した自分の行程で、いまだ伏せられたトランプをもどかしく捲るような思いで、先を急ぎ、結果を求めているのである。


昼間ケーブルカーに乗るのは初めてである。わくわくした。

終点から見下ろすと意外と標高がある。

地平線ではなく水平線。相模湾が見渡せる。



  即座に白黒はっきりできない答えを持つものに、脱原発か原発推進かと言う、現在の日本の方向性を含む問題があるとしたら、よく似たものに、官僚制という問題がある。
  政治主導を唱え、官僚叩きを訴えた民主党が政権を得たように、官僚を悪だとする偏った風潮も存在する。日本の官僚が善か悪かという答えこそが大問題で、そこが日本の衰退に起因するものであるかのようにいつも問われるのだが、私は答えを持たない。

  「日本中枢の崩壊」(古賀茂明著)
  「国富消尽」(吉川元忠、関岡英之・共著)

  上記の本を読んで(国富・・・はまだ途中)、ますます混乱した。
  「日本中枢の崩壊」では、官僚を悪として叩いている。「ここ」が改革を拒み、時代にそぐわない古い考え(体制)のまま腐っていくから、日本が崩壊しているのだと説いている。が、国富消尽では、「ここ」が腐る原因は別(構造改革)にあり、官僚はその渦に巻き込まれた被害者、と言うより共犯者であり、もはや改革を食い止めることは出来ず、(日本の為の)安全装置の役割が出来なくなった死に体のような書かれ方である。
  両者の構造改革の内容が違えば、救いようがあるのだが、読んだ限り、私には同じと思われた。
  (政策のアイディアは違うが方向性は全く同じである)

  ・・・白黒違いすぎる。
  ・・官僚制が今のままではいけない、と言う主張は同じなのかもしれない。

   個人的な意見だが、日本の中枢が官僚であるならば、長い間、この国をよく持ち堪えさせてくれたものだという感謝の気持ちが湧き起こる。
  誰の比喩だったか、操縦士のいない飛行機のようなものだ。日本はもう長いこと、操縦士(リーダー)なしで、戦闘中の空を飛行している。
  彼らが古賀氏に叩かれている古い体質を受け継いでくれていたからこそ、乱気流の中を飛び続けることが可能だったのではないかと思われた。OBのしたことやったことが絶対で、政治によって容易に変えられないとしたら、それは表向きは省庁の既得権を守ろうとしていた悪であろうとも、日本人の無意識の意志を護ろうとしていたと考えても同義ではないか。(なにせ政治は状況によって変わりすぎる・・)まるでそうと言えない事例もあるだろうが、外交に関して特にそう思うことがある。国益は省庁の利益に適っていると思うこともある。彼らが利他的でなくて良かったと胸をなでおろす半面、彼らが依るところは歴史の前例とDNAに組み込まれた集合体の無意識でしかないので、操縦桿を奪い、握るものが例えば他国の指導者となると、もう吉川・関岡両氏が言うような、操縦どころか全く安全装置としての役割さえ効かない、従順で、なすがまま、敵の攻撃に晒され、機体が崩れ落ちていくことを許した存在となってしまう。

  日本古来の無意識の集合体を日本人は高い税金を払って護っている。(護っていた)
  そう感じながら、それにも関わらず、官僚の時代にそぐわない伝統の継承とその健闘に感謝と称賛はするけれど、彼らの意志(無意識を含めた意志)が善だと確信するには足りず、その構造が悪だと断罪するには及ばなかった。
  不思議だったのは、あの利己的な官僚たちがこれだけ譲歩して、他国の意志に沿い、利他的な構造に日本を作り替えなければならなかったのはなぜかと言うことで、そうまでしなければ自分たちを(日本を)護れなかったということは、官僚の善悪を問う答えには意味がなく、リーダー不在と核兵器の不保持こそが日本中枢の崩壊の最大の原因だったのではないかと思われて来る。
  (ただし、「日本中枢の崩壊」ではあくまでも構造改革、「国富消沈」では「集団民主主義的価値観」に回帰することを解決策として挙げている) 
 
 

  ケーブルカーで自然を楽しまずに「修行のスタート地点」に着いた私は、頭がとち狂ったのか、核兵器保持をしなければ、日本の崩壊を止められないと言うならば、当然、脱原発ではなくて、核推進派に転向しなければならないだろうし、戦争による解決の手段も、エネルギー政策による自然破壊も免れないわけである。


  それはあり得ない。

  こう見えて、私は、あの宮崎駿にだって負けないくらいに、自然を愛しているのだ・・


  (またしても堂々巡りが始まる・・)

  下社からの登山道は、前回、前々回と登排門から本坂を通らずに、見晴台を通っての傾斜が緩いコースを選んでいる。
  今回は、本坂の、まるで地獄の1丁目から28丁目を通っての道を行こうと初めから決めていた。
  70歳は越えていると思われる老婦と、孫の少女二人が小さなリュックサックを背負って、途方に暮れていた。下社の茶屋で、見晴台までのふれあいの道(東道)が台風12号の影響で崩落したと聞かされたのだ。
 
「残念だねぇ・・」
「お昼どこで食べようか」

  老婦の溜息に、孫が答える。多分「おばあちゃん」は、孫たちに見晴台の景色を見せて、自前の握り飯や卵焼きを食べさせてあげたかったのだろう。「見晴台には行けませんよ。こちらでお昼をお召し上がりになりませんか」と声をかける茶屋の夫人たちに頭を下げて通り過ぎる。

  残念だねぇ、と繰り返して、肩を落としているのであった。(だからと言って、山頂までは行けまい!老婆と小さな孫娘二人とでは・・)

  目的地が崩落し、意にそぐわないところで旅が終わりとなり、引き返さなければならないことの無念さを想う。自分の人生もいつそうならないとは限らなかった。トイレに行って戻ってみると、老婦人と孫たちは、見晴台へ向かう東道の入り口で、崩落を記した張り紙をしげしげと眺めていた。まだ諦めきれないようだ。同情を覚えながら、自分としては、道が限定されたこと、選択肢の可能性が消滅したことをほっとしたような思いで受け止めてもいるのだった。(残酷なことに!)

  下社の横の登排門をくぐると、どうも厳粛な気持ちになるものだ。
  鳥居を過ぎるとすぐに傾斜の急な石段が続いている。この石段を見て、初めからこれでは「心が折れそうだ」と称する者がいる。
  観光地化しているので、もっと楽な登山道を想定してくるものも多いのだろう。
  この石段を帰りに降りた時に、私は一定のリズムで軽々と降りたものだった。最後に門を超えて、深々と一礼をした。
  そのすぐ後に通り過ぎた男女二人連れは、これから登るのか(その時は午後の3時を廻っていたので)、それともただの冷やかしなのか、男は思い出したように女に言ったものだ・・

「たぶん、山岳信仰と言うこともあるのだと思う・・・」

 
  気障な言いぐさにも聞こえた。
  石段を登り、しばらく歩くと、最初の見どころは夫婦杉である。
  根から二つに枝が別れた立派な杉が立っている。
  大山には杉が多いが、(特にこのコースは山頂までのほとんどが杉と衰退したモミ林で、美しい樹木の見どころが少ない)台風の影響なのか、この日は何本も倒れていた。少なくとも5か所は遭遇したと思う。(初め、私は登山に夢中で気が付かなかったのである)所々に、まるで雷が落ちたかのように、杉(もしくはモミ)の木が途中で裂け折れて、登山道や山の谷間に向けて倒れている。
  まるで愛想がない登山道はいっそう無味乾燥して見えるのだが、それでも、観光地なのだ。母親と小さな子供の親子連れは平和だった。ドングリを拾いながら歩いている。若い二人連れはジーンズと少女はミニスカート、裾を抑えながら睦まじく登っている。
  彼らは明らかに観光目的であり、平和そうで、登山の心得も装備も準備不足と思われるのに、不思議なものだ、先を行かれるのが悔しそうである。自分もそういうものだっただろうか。無意識なのだろう、道を閉ざすような歩き方をふとする。思わず言葉を漏らす。

「俺たち、ずいぶん抜かされているよね・・」

  ミニスカートの少女は泣きそうな声で答えている。少年に手を伸ばしながら。「いいよ、いいよ、のんびり行こうよ・・」
  そもそも、大山が観光地化していること自体がおかしいのではないか。この信仰の山は美景でもなければ、そう歩きやすくもない。(老婆と子供は諦めざるを得ない山道だ)本格的な装備をしたものと、普段着の観光目的の者たちとが混在し、丹沢の山にしては独特な趣きを醸している。
  お陰でどうも調子が狂う。

  普段着の彼らを登山者でないと見下しているわけではないが、彼らの裡の僅かな反発心が私には疑問だった。得意げに抜かすわけでもない。ペースが合わないのだ。もしも私ならば、脇に退いて、余裕があればこんにちはと声をかけたいところだが、余裕のあるなしに関わらず、その意思はないようである。

  私は黙々と登った。
  せっかく所持した広角レンズだが美林も見事な樹木も見つけられず、出番が少ない。また、丹沢の登山者と若干の相違がある、この大山の半分観光、半分本気な登山者たちの前で、どうカメラを使えばいいのか(写真と向き合えばいいのか)困ったこともある。
  抜かしたら最後、先に行かねば納得してくれないだろうと思われた。のんびりと写真を撮って、また道を譲るというのは、彼らの僅かな反発心をますます増長させるように思われた。
  いや、どう思われてもいいが、ここでは、それはルール違反のように思われたのだ。
  それで、私は山登りに専念した。道を楽しみながら行く、ことよりも、登ること自体を楽しんで行く、と言うような登り方。登山者たちと挨拶を交わし、息を切らさずに、黙々と一定のリズムを以て登る。呼吸の乱れもなく、足取りの乱れもなく、流れるように登ることは、続けば続くほどに快感ですらあった。
  そのうちに私は、中途半端な覚悟を持った観光地の登山者たちの不遜さを忘れてしまった。木々を見ることも忘れてしまった。
  時折、林が開けて、眼下の町の景色が見渡せる。その美しさにも感動を覚えなかった。
  「ここ」を「きちんと」登れている自分を、ただ楽しんでいた・・


  意外と私はまだ駄目じゃないんじゃないか。
  末期症状どころか、全然以前よりいいじゃないか?・・・


  (不遜なのはどちらなのだか!)



阿夫利神社下社

夫婦杉

時折眺望が見渡せる。


  山頂にはあっという間についた。タイムを測りたかったが、お気に入りの時計が止まっていた。
  今思うと、偶然にしては良く出来ていると驚かされるが、使い続けていた時計がその日のスタート前に突然止って、おまけにスタート前に時計を見忘れ、時計を見た時間から大体の時間を逆算してスタートタイムを測っていたので、時計が止っていたことに気が付いた時は遅かったのだ。気が付いた時から山頂までが35分なので、まぁ、1時間以上はかかっただろう、そんな大雑把な時間しか把握できなかった。

「予定より10分短縮して、登ったぞ」
「あと5分だ」

  そんな会話を、時間を見失った後になって何度も聞かされた。
  登山というと、私の基準では、「標高」か「距離」なのだが、「時間」を指針とする者のなんと多いことよ。
  以前、父親と大山に登った時に、「あと何分」、「あと何分」ばかりを聞かされていたことを思い出した。
  努力してもしなくても、何をしてもしなくてもい、時間さえかければ、「そこ」に辿りつけるならば、私の旅はどんなに楽なことだろう!
  時間になど何の意味もないのに、どうして皆、時間を基準とするのか。
  等と、時を見失った私が、もがくように考えている・・・


 
『現在、日本は危急存亡の面しているといっても過言ではない。大震災でますます追い詰められた』(「日本中枢の崩壊」より)

 


  時間がない。「滅びの道が避けられなくなる」。


 

  大山山頂の茶屋の主人をここ数回見ていない。倒れたかと思って心配していたが、今日は元気に働いていた。ほっとした。
  が、以前と顔が違うのだ。それにあんなに大男だったか。
  山頂のブナは、まだ立ち枯れには遠いようだ。元気に葉を纏っているが、相変わらず瑞々しさは感じられない。枯れたような葉を枯れたように染めている。



  自己満足に浸りきった不遜な私に衝撃を与えたのは、帰り道で出会ったある主婦だった。

  彼女は、夫と子供をおいて、一人で下っているのであった。

「こっちの道じゃないかな」
  登山道の分岐点で、父親と子供が立ち止まっている。
「おかあさんはこっちへ行ったよ」
  小さな少年は左の道を示すのだった。得意げな響きを以て。

  「おかあさん」が誰を差すのか、私はすぐに理解した。父親と少年を追い越して、若い女性が一人で山を下っている、しかも荷は何一つ身に付けていない。(私は父親の大きなリュックを思い出した・・)
  彼女は時折、後ろを振り返るのだ。道の途中で、何度も、何度も。誰かを待っているように。が、実際、足を止めて待つでもない。彼女は、必死で、先を行くのであった・・



 
枯れた登山道。台風の影響もあるが。

参道の鳥居が見えた。本社のある山頂が近い。

山頂からの展望。左端が私の好きなブナの木。

ブナの枯れたように染まっている葉。

山頂からの展望。




  荷は持たない。格好はジーンズにパーカーである。父親と子供は置き去りだ。そのくせ、道を譲らない。何とも中途半端な、観光地の登山者だった。

  ところが、後ろを行くことを私は受け入れざるを得なくなったのだ。

  まるで彼女は、肘とひざを曲げずに、カニ歩きのような格好で、大きな石がごろごろした傾斜の急な登山道を必死になって降りていく。明日は筋肉痛で、いや、あの格好ではもう筋肉が限界を超えている、明日から三日はまともに動けないだろうと思われた。それほどぶざまな降り方であった。
  反して、私は余裕がある。駆け下りることも厭わないほど、まだまだ十分な体力も筋力も残っていた。
  しかし、どうしても彼女を抜けなかったのだ。
  その必死さに心を打たれた。一歩降りるたびに、彼女は苦しそうな息を漏らす。「はっ」、「はっ」、「ふっ」。それでも歩みを止めない。時折、心配そうに振り返るが、歩き続けるだけである。彼女の後ろに、私と年配の夫婦連れが続いている。余裕綽々の私に、気ままな会話を続けるこちらも余裕の夫婦連れ、それもプレッシャーであったろうと思われるが、それでも、決して道を譲らない、必死で道を急ぎ、カニ歩きを続けるのである。「はっ」、「はっ」、「ふっ」。

  次第に私は応援したくなってきた。
  彼女は挨拶する余裕も消えたのか、登山者に声をかけない。(かけなくなっていった)すぐ後ろの私が初めて人とすれ違うかのように挨拶をしている。
  そんな必死の彼女を抜かすほどに私は急いでいるわけでも、自分のペースに拘っているわけでもない。このまま後ろを付いていきたくなった。
  もしも私が道を譲れば、後ろの夫婦連れは私を抜かざるを得ず、続いて彼女のことも抜いていっただろう。が、私がそれをさせなかった。このまま、彼女をリーダーとして、道を下りたくなったのだ。
 
  想えば夫婦連れも同じ気持ちだったのではないか。私を抜こうとはしなかった。「また杉が倒れているよ・・」「この木の苔がすごいよねぇ」などとのんきに山道を見回して、その度に私ははっとさせられて写真を撮りたく思ったものだ。が、彼らの言う木々を見るにとどめた。
  そうして降りて行くうちに、次第に先頭の彼女は生き生きとしてきたのである。登山者とすれ違うと、明るい声で挨拶を始めた。

「こんにちはぁ」
「こんにちはぁ」

  という掛け声は、まるでウグイス嬢のアナウンスのような、歌うような声である。
  通り過ぎる登山者、道の途中のベンチで休む人々に、彼女は一人漏れなく、歌うような声をかける。ちらりと横顔が見えた。

  その顔は晴れ晴れとした、良い笑顔で、額には美しい汗が輝いているのであった。


  彼女は休憩ポイントを何度通り過ぎても、決して休まず、すべての人々に明るい声をかけ続けて、必死に降りた。
  強い心を持って。気持ちだけは負けないで。
  私は彼女の美しい笑みと汗が嬉しかった。歌うような声が嬉しかった。
  あまりプレッシャーをかけないよう、一定の距離を保って続いていたが、その距離が次第に詰まるようになった。
  肘とひざを突っ張らかした横歩きの降り方も、ペースが落ちて、ああ、限界なのかな・・と思った時。
  次の瞬間、彼女は歩みを止めて、ふと杉の木の脇に身を避けた。


  それが最後だ。
  私と夫婦連れは何事もなかったように横を通り過ぎていく。挨拶は交わさなかった。
  一瞬、彼女が私の横顔を見たような視線を感じたが、私は顔を向けなかった。
  彼女を抜かしたこと自体が存在しないかのように、黙々と降りていくだけだった。


  あの後、あの若い主婦はウグイスのような挨拶を続けただろうか。
  荷を持った夫と、子供を待っただろうか。

  もちろんそうであるほうが良い。失望したわけでもない。
  それでも、彼女が道を避けた時の、来るべき時が来ただけである一瞬、私がどれだけ哀しく、残念に思ったか、この感情を伝えることは難しい。

  思い出すのは、あの生き生きと、晴れ晴れとした彼女の笑顔である。
  額の美しい汗であった。



  リーダー不在のこの国を憂うことも、究極の問いを堂々巡りで考えることも終わったわけではない。
  が、多様なものが存在するこの山のような場所を導くものが、彼女のような存在でもいいとふと思っただけであった。
 
  荷を持たなくても、そもそもが中途半端な覚悟でも、心を強く持って、気持ちだけは負けないで。歌うように全員に声をかけて、遙か後方の子供にまるで身勝手に道を示す存在でもいいのではないかと、その必死さに心を打たれて、後ろを付いていくものがいることを知っただけの話であった。




 

  余談であるが、この日、初っ端からドコモのケータイのガイドブックで自信を失い、出ばなをくじかれた感のあった私だが、終わりはそう悪くはなかったということを伝えておきたい。
  中途半端な観光登山者として、ケーブルカーを利用した登りと下りの道でのことだ。
  思いがけない出来事があった。
  ケーブルカーの運転手が、不意に乗客を促すような声でアナウンスを始めたのだ。

「岩の上に鹿がいます」

  車内がどよめいた。

  登りの道では若い子じかを見た。
  鹿など珍しくはない。が、帰りはしかし、運転手さえも興奮しているような口ぶりなのだった。

「親子連れですかね。4、5匹います」
「もうすぐです。あの右の岩です。あそこです!」

  岩場に横たわる牡鹿の雌鹿、そして小鹿たち。乗客たちの目は釘付けになり、姿が見えなくなるまで、首を回して追っている。

「こんなことはめったにない。皆さん、運がいいですよ」

  運転手は嬉しそうに笑って、言った。「写真、撮れましたか?」



  よほど、ピンボケで全滅だったことを伝えようかと思ったが、あまりの彼の良い笑顔と、そして鹿たちを目の当たりにした直後のことだったので、私は浮き立つ気持ちを抑えきれず、笑いながら、答えた。「ええ、撮れました」


  牡鹿の角は立派で、その角も毛の色も、雌鹿や子鹿とは違う、深い茶色であった。
  姿が見えなくなるまで追ったのは、彼の澄んだ、まるで健気な瞳であった。





ケーブルカー登り。

下りのケーブル。下りと登りは一本のケーブルでつながっているので同時に来る。

岩の上の鹿たち。立派な牡鹿と、雌鹿、子供が二頭いた。



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