心震える祈りの歌「くちびるに歌を」

 

 神戸でエレベータの中にいた女性が殺されるという、信じがたい事件があった。

 犯人は「好みのタイプだから跡をつけた」と供述しているという。

 警察は、一方的な思い込みによる反抗の可能性も視野に入れて捜査を進めているそうだ。


 なんという恐ろしい世の中だろう。

 自分に落ち度がなくても、ただ誰かの好みというだけで命を奪われてしまう。

 美人に生まれなくて良かった。そんな皮肉な安堵を、しみじみと感じた出来事だった。

 

 そんな暗い気持だったが、私は一冊の小説に救われた。

 今日読んだのは、美人の先生が産休の代理として田舎の中学に赴任し、合唱部の少年少女たちと心を通わせていく物語だった。

 それは現実の事件とはまるで別世界のような、爽やかで感動的な青春小説だった。





 くちびるに歌を(中田永一)


 【あらすじ】

 長崎県五島列島のある中学合唱部が物語の舞台。

 合唱部顧問の音楽教師・松山先生は、産休に入るため、中学時代の同級生で東京の音大に進んだ柏木に、1年間の期限付きで合唱部の指導を依頼する。 

 それまでは、女子合唱部員しかいなかったが、美人の柏木先生に魅せられ、男子生徒が多数入部。ほどなくして練習にまじめに打ち込まない男子部員と女子部員の対立が激化する。

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 ・清らかな歌のような構成

 乙一さんというホラー作家の別名義の小説。初めて読む作家だが、本当によくできた青春小説だった。もっと若い頃に出会いたかった。

 この小説は、心に傷を抱えた少年少女たちが、「歌」と共に成長していく姿を、静かに丁寧に描いている。

 それぞれの想いが折り重なり、まるで混声合唱のように物語が進んでいく。

 エピソードが自然に絡み合い、やがてハーモニーとなって、結末へと向かう。

 読み終えた後は、良い合唱を聴き終えたかのような温かい余韻が残った。


 ・記憶と再生のドロップ

 とりわけ印象に残ったのは、ナズナという少女の思い出の場面だ。

 子供の頃、サクマ式ドロップを落としたときに、それを誰かに食べられてしまう。

 大切な母親(今はもういない)がその時何を言ったのか、どうしても思い出せない。

 物語が進むうちに、拾って食べたのがサトルの自閉症の兄だったことが明らかになる。

 そして彼には、障害者ゆえの特殊な記憶能力があり、ナズナの母親の言葉を記憶していたのだ。

 その言葉が明かされる瞬間、まるで奇跡が起きたかのように胸が熱くなった。

 「誰の存在にも意義がある」

 その真理を、静かに、しかし深く心に刻まれたエピソードだった。


 ・歌は祈り

 合唱部員たちが、Nコンの舞台に立つ。

 その時、彼らは思い出す。「くちびるに歌をもて」松山先生の口グセを。

 命懸けで出産に臨もうとしている先生の無事を祈りながら、彼らは声を合わせ、心を込めて歌う。

 歌に祈りが宿る。

 だからこそ、心が込められているのだ強く思った。


 ・声なき少年の歌

 誰とも話さず、いつも学校でぼっちで過ごしていたサトル。

 彼の出征には、兄が自閉症であることが深く関わっている。

 まるで望まれていなった命のように、サトルはひっそりと存在していた。

 けれど物語の最後、彼のくちびるから、溢れるような歌声が響き出す。

 退化したように閉ざされていたくちびるが、仲間と共に歌うという奇跡によって、確かに開かれたのだ。


 「くちびるに歌をもて 勇気を失うな

 心に太陽を持て そうすりゃなんだってふっ飛んでしまう」


 このフレーズが、読後もしばらく心に残り続けた。

 辛いとき、苦しいとき、ふとハミングしてみよう。

 歌を持って、勇気を失わず、心を熱くすれば、全てはなんでもないことのように思えた。

 青春の中にある痛みと再生の物語。

 この一冊を、すべての少年少女たちに届けたいと思った。



 最後に、冒頭の神戸女性殺害事件。

 もしもあの犯人が、ナイフの代わりに歌を持っていれば、と思わずにはいられない。



 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 今日も心温まる1日となりますように。

 願いを込めて。




 



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