手塚治虫のラストメッセージと祈りの言葉「ガラスの地球を救え」
羅臼岳で人を襲った熊のニュースを見てぞっとした。
知床(斜里町)では今まで何十年もの間、熊との共存関係を築いていた。
こんなことは初めてだという。
昔なら、もっと山は人と獣の距離があったはずだ。それが今、熊は山を越え、人間の生活圏に降りてくる。
それは単なる「熊の異常行動」ではなく、私たちが自然との距離を破壊して来た結果なのかもしれない。
GACKT、クマ問題に私見「にらみ合うべき相手はクマではなく、未来を壊し続けている、この現実」
そんな思いで手に取ったのが、手塚治虫のエッセイ「ガラスの地球を救え」だった。
ガラスの地球を救え(手塚治虫)
【著者紹介】
1928年、大阪府豊中市生まれ。本名・治。大阪大学付属医学専門部を卒業後、医学博士号を取得。46年、『マアチャンの日記帳』でデビュー。翌年、ス トーリー漫画の単行本『新宝島』がベストセラーになり、注目される。以後、幅広い分野にわたる人気漫画を量産し、子どもたちに夢を与えつづけてきた。『ネ オ・ファウスト』など3作連載中の89年2月9日に胃ガンのため死去。無類の昆虫好きとして知られ、「オオムラサキを守る会」の理事や「日本昆虫倶楽部」 の初代会長を務めた(「BOOK著者紹介情報」より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・地球は死にかかっている
手塚治虫といえば、私にとっては幼い頃に自宅にあった「リボンの騎士」の人だ。
きっと母が買ってくれたのだろう。当時愛読していた「りぼん」や「なかよし」の少女漫画とはまったく違っていた。メルヘンチックなのに奇想天外なストーリー、そして、まるでアニメーションのように生き生きと動く絵。何度も何度も読み返したのを覚えている。
その手塚治虫が死の直前に、地球の危機を訴えたのが本書である。
私は、彼が自然を愛する自然保護派であることを知らなかった。
「未来を描く人」、「人間の業を描くヒューマニスト」という印象だったからこそ、このエッセイを読んで、「リボンの騎士」のあの独特な発想も、自然のなかで縦横無尽に広がる幻想から生まれたのかと、腑に落ちた。
彼は「自然が僕に漫画を描かせた」と語っている。空き地の草花、虫、風景ーーそうした身近な自然が、空想の原点だったのだという。
「治虫」という名前も、甲虫の「おさむし」に由来しているのだそうだ。
蝶の匂い、カブトムシの匂い、トンボの匂い・・・
私には想像もできない世界だったが、「匂い」という感覚まで含めて、彼は自然と深く付き合っていた。とても驚かされた。
・路地裏こそ味がある
もうひとつ印象に残ったのは、日本の都市構造に関する考察だ。
日本は都市と都市の間に必ず市場があり、交易の空間を含めた生産の空間と、いわゆる都市の消費の空間がかなり曖昧になっていて、その真ん中に核があるのだそうだ。
こういう都市作りは他の国にはない。
他の国は、都市と都市をつなぐ通りよりも広場が中心となっている。
そういう国は路地も面白くないそうだ。(手塚治虫は各国の路地裏を見ることこそが、その国の本質を知る最善の手段だと考えていたらしい)
そして日本では、1970年の万博を境に、西欧的な「広場中心の都市作り」が模倣されるようになり、それが都市と自然とのゆがみが生み、やがて自然環境まで排除につながったという。
私は万博を、日本の発展を象徴する良い出来事だと信じていた。
その万博が、都市から自然を追い出す転機になったという彼の指摘には、衝撃を受けた。
手塚治虫は都市からの自然環境の排除が生き物を減少、ひいては地球の破滅へとつながると危惧していた。
今から40年近くも前の段階で、「このままだと地球は危ない」。「現状を思うと、21世紀さえあやしい」と、真剣に警笛を鳴らしていたのだ。
その先見の明に、私は驚かされるばかりだった。
そしてなにより、手塚治虫が命をかけて教えてくれたにも関わらず、私たちは何も変えられなかった。
今なお、ガラスの地球を傷つけ続けていることに、静かな悲しみが込み上げてくる。