(改稿)恥ずかしくない新海誠作品、「すずめの戸締まり」。



 こんにちは。

 新海誠監督最新作の「すずめの戸締まり」を観てきたのですが・・・

 騙されました。





 返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿 


  先に、上の文を読んでいたんでよね。なので、すっかりこれは死者との世界の壁を描いた物語であり、死者とは、もう二度と、決して、交われない、という死者との決別をリアルに描写したものである、と思い込んでいまして。

 何て哀し過ぎる物語なんだろう、と涙を流した瞬間、主人公があっさり死者の国(常世)からこっち側(現世)に戻ってきた。

 あっけにとられてしまいました。

 え? 何? ギャグ??

 まぁ、読み間違えた私が悪いのですが。ということで、少なからず私の映画鑑賞に影響を与えてくれた記事ですので、webからいつか消されてしまう前に、コピペして、映画を見た感想のブログと共にとっておこうと思いまして。

 下に幾つか引用させていただきました。(青字は引用文です)

 (土居伸彰氏の記事をお借りいたします。どうもありがとうございました)


 ※ネタバレになってしまいすみません。先に小説も発売されているので、ご容赦ください。

 すずめの戸締まり


 改めて言いますが、新海誠監督の「すずめの戸締まり」を観てきました。

 




 う〜ん、結論から言うと、ずいぶん感動いたしました。

 こんなエンタメ作っちゃうんだ。すげぇ。というのが正直な感想です。 

 この題材をエンタメにできるのか、という衝撃なのか。それとも、こういう面白い物語を作れる人が日本にもまだいるのか、という衝撃なのか。

 とにかく、すごいと思った。

 「君の名は。」からのにわか新海誠ファンですが、実は、「君の名は。」と「天気の子」を観ているときは正直恥ずかしかったのです。いい歳して、こんなの観に来ちゃってる。と、観に行った時も、観ている最中も、観終わって感動した後も、どこか恥ずかしい思いがしておりました。
 ところが、今回の「すずめの戸締まり」、そういった場違いな感じ、違和感がまったくありませんでした。恥ずかしくももちろんない。むしろ誇らしかった。むしろ馴染んでいた。

 この映画は誰が見ても、そう思うのではないかと想像しました。もうアニメの枠を超えている。誰しも楽しめる。泣ける。素晴らしい国民的な映画だと思いました。




 『君の名は。』『天気の子』が青臭いほどの瑞々しさを放ち、それによって世の若者をフックに引っかけていたとすれば、『すずめ』において、表面的なキャッチーさは一歩退いたような印象を与えます。

  かといって新海誠が本作でそのユニークさを失ったかといえば、違います。映像全体は、過去作品と比べても断然に力強くなっています。その力強さは、「地に足をつける」ような物語やモチーフの選択と響き合います。女子高生と椅子が日本全国を駆け回る旅は、2時間にまとめられるべく緩急なしで加速するように進んでいきます。扉や鍵を開ける・締める動作が印象的です。扉の開け締めは『君の名は。』でも多用されていて、並行する2つの世界の切り替わりの合図となっていましたが、本作においては登場人物たちを前に進めていくための動力となっています。
 


 何がいいって、「場所を悼む」という発想に共感いたしました。

 確かに日本には始める時には祈祷を行う地鎮祭があるけれど、終わったときは何もしません(監督が疑問だと言っていたことです)。

 急速に衰えている日本にはそんな「終わってしまった場所」がたくさんあります。各地で放置されている廃墟の場所の、町のあの切なさ。

 一度、金華山の廃墟となったホテルを見たことがありますが、本当に今にでも当時の華やかな景色や人々の声が蘇ってきそうで、生々しい思いがいたしました。

 あのような人々の思いが強く残る場所を、何も、祈祷もせずに放置するということは、本来ならばあってはならないことのような気がします。

 地震や災いが(後ろ戸のようなものから)生まれてきても仕方がない、とさえ思う。

 しかも、「悼まれていない場所」が、廃墟ならまだしも、地震などの自然災害により失われたところだとしたならば? 

 日本は復興に力を入れていますから、そういうところはないとは思いますが、個人的に、例えば主人公のすずめの成長物語のように、場所を悼まなければ終わらないという儀式のようなものは必要なのかもしれません。




 本作は宮崎県をスタート地点として(主人公の名字は「岩戸」であり、『古事記』に描かれた日本創生の神話とのつながりが暗示されているのは間違いありません)、神戸、東京、そして東北へと進んでいきます。あたかも地震を通じて日本の歴史を問い直す旅路のようでもあります。昭和のヒット曲が流れるなか東日本大震災の被災地を巡る後半の展開は、震災のみならず、昭和を供養しきれていないと暗に語っているかのように読めないこともありません。つまり、自分たちが辿ってきた歴史という「足元」を見つめる、ということです。 

 『すずめの戸締まり』の驚き――東日本大震災を真正面から描く

  いま、さらりと言及してしまいましたが、『すずめ』一番の驚きは、東日本大震災を真っ向から取り上げているということでしょう。

 



 (中略)一方、『すずめ』は、生者と死者のあいだに、決して超えることのできない大きな壁があることをつきつけます。死者は決して再び姿を現すことはありません。『君の名は。』の三葉のように生者と体を共有したり、復活して再び動き出すことはなく、過去の回想を再生することでしか現れないのです。数々の死者・廃墟は、後ろ戸が閉じられ、成仏させられるとき、ただ単に草太とすずめに「思い出される」もしくは「想像される」にすぎません。実体を持つことはないのです。コミュニケーションさえも取れません。ただただ一方的に、思い出されるだけなのです。

  すずめの母親についても同じです。かつての被災地で扉が閉められるとき、あの大震災の無数の被災者たちの、この日が最期になるなんて思いもしなかった、あのいつもと変わらない一日の始まりが、思い出されるにすぎません。この展開は、本当にすごいと思いました。本当に、禁欲的に、「想像」の範疇にとどめるのです。

  死者に対するこの距離感は、とてもリアルな形で描かれていると感じました。実は筆者自身も小さなころに母親を亡くしており(すずめに比べるとだいぶ成長してからでしたし、震災とまったく関係ないですが)、最期の瞬間に立ち会うこともできませんでした。本当に何度も何度も、最期の日のことを想像しました。それはやはり想像でしかないという圧倒的な無力感がつきまといます。『すずめ』における死者との距離感は、本当にリアルに感じました。

  『すずめ』は新海誠にとってもおそらく最大規模の作品になっているはずですが、この規模で作られる作品が、死というもののあり方について、単純なお涙頂戴ではあく、こんなにも切実な描写をしたことに対して、最大限の称賛を贈りたい気持ちです。

 



 (中略)本作は公開前に、緊急地震速報を模した音が鳴ることを「注意喚起」をして話題になりました。突如としてフレームインしてくる福島第一原発もそうでしょう。本作は、「見せられて」しまうという意味での暴力性を孕んでいます。

  すずめの生家の近くにある扉から入った常世の描写も驚かされます。そこは、12年経った今でも、災害の当日のように、燃え続けているのです(震災当日の夜、燃え上がる海と町の映像を観たことを思い出す人も多いと思います)。巨大化したミミズの姿は、津波を思わせます。少し前、それこそ『君の名は。』公開の頃であれば、まだこういった描写は難しかったのではないかと想像します。そういう意味では、新海誠がこのように真正面から震災描写に取り組むためには、時間が必要だったのかもしれません。いずれにせよ、『すずめ』を観ることは、災害を「見せられる」経験であるのは間違いありません。

  見せられる経験によって、『すずめ』はさらなる深みへと、扉を閉める=追悼する儀式へと、私たちを誘っていきます。

  その最後の仕上げとして重要なのが、「閉じ師」である草太です。近年の新海作品には、巫女的な存在が常にいました。日常的なスケールからはみ出した力を宿してしまう登場人物です。本作では草太が、猫のダイジンによって椅子に変えられ、要石の役割も移転させられることによって、そのような存在となります。草太は本作において、死者の世界である常世に最も身を浸します。

  私が本作で最もハッとさせられたのは、草太の走馬灯的な映像です。草太は、要石になっていく過程で、すずめの姿を、その旅路のハイライトを見ます。死にたくない、生きたい、という思いとともに。ここでの草太のビジョンは、おそらく、死が迫ったときのすずめの母親のビジョンでもあるように思います。すずめに対する思いを抱えながら、死の世界へと旅立ってしまった、その最期の瞬間の想像です。草太の経験を通じて、私達が見せられることになるのは、死者たちの世界を、絶対に壁を乗り越えることができないことはわかりつつも、なんとか可能な限り肉薄しようとする行為であり、死者のビジョンを想像することです。

  重要なのは、草太は「当事者」ではないということです。しかし、閉じ師として、見えているものの向こう側を想像しつづけていました。だからこそ、「当事者」であるすずめとともに、犠牲者たちの最期の姿を、3月11日に無数に発せられた、永遠の別れとしての「行ってきます」を、共有することができるのです。





 (中略)一流のスタッフたちが集まって作った娯楽大作であり、しかしその作品を楽しみ、すずめに感情移入して、草太と死者のビジョンを想像することは、災害の記憶を観客の身体に留め、埋め込むことでもあるわけです。正直なところ、新海誠がこんなに野心的で挑戦的な作品を、もはや大御所になりつつあるこの段階で作ることになるとは、想像していませんでした。でも、これは、新海誠が「国民的作家」となったからこそできる、新しいかたちの「娯楽作」のあり方なのだといえるではないでしょうか。





 引用終了です。
 どうもありがとうございました。
 
 青字の太字は筆者がつけました。本当に、これだけ大御所になった(もうなっていると思います)というのに、なんという野心的な挑戦なんだろうと私も思いました。それだけ革新的な作品でした。
 (なのに、エンタメとして面白いというところも素晴らしいと思います)

 一つだけ言わせてもらうならば・・

 個人的に不思議だったのは、あの猫のダイジンの扱い方ですね。ツイッターではダイジンの最後が可哀想すぎると話題になっていたようですが、どうしてどうして。

 ダイジンは宮崎から東京へと逃げながら、各地の後ろ戸を開けてミミズを呼び起こしていた、ということになっています。最後の方で、「まさかそのために・・・」とすずめがハッとする、ダイジンはわざとやっていたのではなくて、災いのおこる場所へすずめを導いていたのだ、というふうに善意的に捉えられていますが。
 でも、あの東京の大震災未遂事件ですが、あれは草太が要石になることで防いだのですよね? だとすると、もう一匹の要石の黒猫が抑えられなかった東京大震災を、新人要石の草太が抑え込めるとは思えません。だから、あの黒猫の要石をダイジンが外したと、愉快犯的に、(草太を要石にするために)東京大震災をわざと起こした、と捉える方がストーリー的には合っています。

 すずめのうちの子になりたかったばかりに、草太を身代わりにしようとした。身勝手な神様である、という結論になります。

 だから、可哀想ではなかったなぁ。(最後にね、ダイジンという猫が死んじゃうんですよ。そこが可哀想ではないという話です、すみません)

 善的なものではなくて、物語を進めるための、ダークサイドとしての神の存在を、「猫」をキャラとしてどうして書くかなぁ、というのが少し不満なんですよ。笑い顔が不気味でしたよ。主人公のラブストーリーを破壊する悪者として描かれるなんて、何かイヤよねぇ。




 ところで、映画館ですが、結構空いていました。18時からの回だったからせいかもしれませんが、ガラガラっぽかった。大ヒット上映中? なのか。すごく残念な想いがします。こんなにいい映画なのに。

 あと、聖地巡礼の話ですが、物語のすずめの生家が、私が岩手にいた時に住んでいた地方と同じだったのです。驚かされました。これはとても懐かしくてよかった! また行きたくなった、移住したくなりました。思わず、仕事を探してしまいました、笑

 いろいろ書きましたが、とにかく、とても見ごたえのある、新海作品の中で最大級に面白い映画でございました。レビューで数々のツッコミやだめ出しをされている方もいましたが、それじゃお前あんな面白い映画創れるのかよ、と問いたい、かな。おすすめです。絶対、配信やTV放送を待たずに映画館に行った方がいいですよ。

 特に、東日本大震災のことを書いてくれたのは本当にありがたかった。
 真摯な形で、このようなエンタメにしてくれたことも、素晴らしい偉業だと感じました。とても救われた想いがいたしました。

 失われた土地も、記憶も、想いも、すべてこの映画を観て悼みたいと思います。


 

 ということで、すずめの戸締まりのお話でした。


 今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。


 素敵な時間を過ごせますよう。

 願いを込めて。






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