金華山例大祭に行ってきました。〜キンカアザミの咲く心が帰る場所〜




靴を落とした。お気に入りの靴だ。私は金華山へと向かっていた。



金華山※というのは、3年連続してお詣りをすると一生お金に困らない、と言われている宮城県石巻市の霊島で、島全体が神域になっている世にも珍しい島である。

その金華山で例大祭が行われたのだ。私はこの島が大好きで、今回で4回目、そして、一生貧乏とは無縁になるはずの、今年で3年目のお詣りだった。

※金華山については過去記事に詳細あり(すみません、宮司様を間違えています)

金華山公式HP (行きたい方はこちらを見られると詳しく載っています)




本当は5月のGWに行く予定だったが、嵐で船が出なかった。夏休みも宮城行きの便を取り逃がして行けなかった。いつでも行ける、というわけにはいかない。現在岩手に出張中の私は、猫がいるため、(先に神奈川に行って猫の安全を確保しない限り)なかなか時間をとって霊島くんだりには行けない状況なのである。どうしよう、3年参りはもうだめかもしれない、と悲観していた矢先、例大祭のために金華山行きの船の臨時便が出ることを知った。これを逃したら後はない、と日帰りで強行突破的に出掛けたのである。ウキウキワクワクの、やった!ついに金華山だ、的な1日だったのである。なのに靴を落とした。(靴なしで霊島にいくってどうよ)




ちなみに、金華山は日本の五弁天のひとつ、奥羽三霊山のひとつという有名どころのご霊場だが、お金に男女のご縁に開運という現世での御利益もさることながら、「自然」がいいのだ。不気味なエヴァンゲリオンみたいな昨今の文明(もしくは多国籍企業という怪物・・・それらに飲み込まれる国の方向性をグローバリズムなんとかともいう・・)から切り離され、そう、(あなたも!)何号機とかで体をボロボロにして24時間戦う必要なんてありゃしない、まるで太古の昔のままの、広大無辺な山大神の御慈悲に包まれた自然に包まれて・・・・。
こういう原始的な美しい自然の中にいると、人間らしい心を取り戻す・・というというか、本来こういう場所に人はいるべきなんじゃないか、としみじみ思ったりするのだ。いや、昔の人間たちは、こうやって自然と神と一緒に、隣り合わせで生きていたんじゃないのかなぁ、とか。日本人独自の原点を思い出す。




神域の島にいるのが本来の姿、なんていうと、おこがましいと怒られそうだが。忘れかけていたものを思い出すというのが現実的な表現か。今の世界情勢や国の方向性に必死でついていき人として進化していくよりも、国と個人の原点に気付きその権利を守り抜くことこそが本来の方向性なんじゃないか・・・とか。

思うわけだけど、、、その割にね。私は陸前高田の奇跡の一本松駅(道の駅?)近くの交差点で、置き去りにされた靴※を思いながら、ナーバスな気分で1年ぶりの神域の土を踏んだ。コンビニで買った無印良品のルーム用スリッパで、まさかここに登場する羽目になるとは思わなかった。
悪い験(げん)を落とした、と思えば、それはそれでいいわけだが。

※一応ざっくり説明しておくと、車が土禁のため、失くしたことに気がつかなかったのです。その直前、交差点の信号が異常なほどなかなか青に変わらないので、交差する道の歩道を青にするボタンを押しに車から出ました。走って車に戻ったら、後ろの車から急かされて急発進。焦っていたため靴を入れ忘れて、靴だけ車道に残されたのです。
また間の悪いことに、船の時間があったので靴を取りに戻れず・・・それにしてもあの長い信号は何だったのか。今でも謎です。



金華山の土を踏めなかったお気に入りの靴。
(ため息)

そして今、神域から放り出された人間は、不気味な使徒との戦いに四苦八苦している。




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例大祭の日は女川秋刀魚収穫祭の日と重なった。
帰りには秋刀魚を食べて帰ろうと楽しみに、女川から金華山行きの臨時便に乗る。女川駅前は商店街ができて1年前とはまるで違う華やかさ。人出も多い。金華山行きの船も満員である。



およそ30分で金華山に到着。船着場から参道までの様子が1年前と一変していて、女川同様、復興の様子に驚かされる。金華山日誌によると、ボランティアの方の力が大きいそうだ。羨ましい。なんという徳の積みようだろう。もう少し近くに住んでいたら、私も毎週末ボランティアに通いたいと歯ぎしりをする。(なんの役にも立たないと断られそうだが)


ポケモンGOのポケストップがあったので、旅の記念にとちょちょいと倒してゲットしたら、振り向いた瞬間、若者がわらわら。あらら、速攻で奪い返される。その間わずか30秒。霊島でもポケモンは人気だ。



金華山は海抜445メートル、周囲26キロメートルの島である。444メートルの山頂に竜蔵権現を祀る奥の院が鎮座する。無印のスリッパで山道を登る。ズルズル滑る。周りは登山用の格好をした方々が多い。立派な登山靴だ。あれなら山頂への参拝も難なくこなせるだろう。こちらも羨ましくてたまらない。今ここにいることの奇跡に対する幸福感よりも、失くしたものへの執着が心を貧しくさせていた。また、自分の存在(外見)が恥ずかしくて仕方なかった。今思うとまるで文明社会に洗脳された人間が、この場を借りて罰を受けているような感じだろうか。
誰も人の足元なんて気にしないのだが。




例大祭は11時からだ。先に祈祷受付所で受付を済ませて、まだ少し時間があるので、先に弁財天、金椿神社、五十鈴神社、御拝殿をお詣りした。石鳥居の横に鹿が二頭くつろいでいる。かわいい。



前回の金華山詣の際に出会った竹田さんとばったり出会う。東京からはるばると、20年も続けて金華山に通っている(お詣りに来ている)竹田さん、今年の例大祭は30数名の団体の方々を引き連れての参拝なのだそうだ。その影響力も素晴らしいが、20年も連続して金華山に来るとは、・・すごいですね、と言ったら、みんなそう言うけど違うのよ。
「それだけ、力を借りないと生きてこられなかったのよ」

弱い人間だから、神仏の情けを必要としなければならなかった、というような言い方をする竹田さん。そうだろうか。徳のある方は謙虚な言葉しか口に出さない。一歩ずつゆっくりと階段を上り、金椿神社の拝殿で頭をさげる。その緩やかな動きにも衝撃を受けてしまう。体が今のように思うように動かなくなっても、こんな遠くの島まで来られるだろうか? 自分なら、せいぜい浅草寺あたりで満足してしまいそうだ。神仏はどこにでもある。わざわざ金華山に来続けるとは、何か、とても強い意志があるとしか思えなかった。




「例大祭(とそのあとの食事)が終わったら山を登るの?」と竹田さん。

こんな足元なので、やめようかと思っていた。「そうですねぇ」と微妙な顔つきで答える私。
「帰りの船まで1時間半くらいあるからいけるわよ」

行きなさいよ。それで腹は決まった。金華山に20年以上何十回と足を運んでいる方がそういうなら、金華山の神々が乗り移った生き仏(?)に言われているようなものだろう。やはり山頂の奥の院には行って帰ろう。



例大祭の人だかり(参拝者は160名に及んだ)に近づくとふと美しい巫女さんがやってきて、手を浄めてくれた。左、右、と順番に浄め、次に左手に受けた水で口をすすぎ、最後にその左手を浄めてもらう。参列者の一番後ろの辺りで儀式を待つ。ふと振り向くと、お籠りが行われる参集殿の前方に、宮司様の奥様がいらした。




宮司様の奥様は、いつも何か異変(困った者)を探すように、もしくはじっと見守るように、少し首を伸ばして佇んでいる。あんなに品が良いわけではないが、幼い頃の母親の姿を思い出して、少し懐かしい。ご挨拶すると、お慈悲に溢れた優しい顔で微笑んでくださる。

「どうぞ自由に撮ってくださいね」

去年ご迷惑をかけて申し訳なく思っていたので、このお気遣いのあるお言葉に、ははーとひれ伏したい思いがする。ありがとうございます。また写真送ります。今年は楽をしないで頭と足を使わないと、と気合いを入れる。




例大祭の儀式が始まった。和楽器の音が厳かに響く。去年の教訓を生かして場所を変えると、公式のカメラマンさん?と位置が被り、なんだかビンゴ!(正解)と言われたような気分になる。参拝者の列には入らず、皆様が随身門から107段の石段を登る間に、弁財天様の横の登山道を駆け上って拝殿へ。自分がスリッパだったことを思い出して、ズルズル滑りながら弱音を吐いた。だめだ、間に合わない。



だが、神のご加護か。
・・・間に合った。(写真上)奇跡だ。。



山から流れる水の音が響いている。ざーという強い雨音のようだ。こうべを垂れて、音に聴き入り、そして顔を上げた時には、やけに明るい現実の空間に驚かされる。まるで別の場所に戻ってきたみたいだ。御本殿が御開帳され、八百万の神々へ餅や魚を捧げる儀式が執り行われている。


巫女たちの舞う弥栄舞。



そして例大祭が無事執り行われて。



直会(なおらい)の会場へ。宮司様や寒川神社の宮司様らのお話を聞いて、乾杯の音頭があり、それから新鮮なお魚に、柿の・・なんだろう、とても美味しかった、をご馳走になる。参列者へのお土産をたくさんいただいて、またそれがもったいないくらいたくさんあり、持ちきれないので、社務所?へ預けて、ダッシュで山頂へと向かった。帰りの便まで1時間15分ほどしかない。万が一間に合わなかったら、金華山に泊まる?猫は?明日の仕事は? と不安に駆られながら、スリッパで駆け上っていった。




ケヤキの巨木。パワースポットと言われている。また会えた。



金華山芝がふかふかで思ったより滑らなかった。




こちらも懐かしい清水岩に水神社。二体の地蔵、右が智拳印の金剛界大日如来尊像で、左が法界定印の胎蔵界大日如来尊像。それからスカラベ。足元のコガネムシも懐かしい。




この木も。この必ず少し迷って戻るときの道も。振り向いたときのこの景色も。金華山の山頂へと続く道の途中で見るものは、不思議と全てが懐かしかった。
忘れていた。自分がどれほどこの場所の景色を恋い焦がれていたのか、思い出した。金華山の自然はやはり素晴らしい。



8合目だ。ここでやっと太平洋が見える。雄鹿半島が見渡せる。180度の視界を楽しむことができる。竹田さんはお正月に参拝するとき、必ずここまでは登るのだそうだ。そして海に拝む。ここまででごめんなさいと山頂の神々に向かっていう。
私はそれでも十分過ぎるくらいではないかと思う。それほどまでに美しく感じられる、金華山らしいこの場所で、明るい笑い声が聞こえてきた。東北大学の学生たちだ。植物学を研究しているという若者たちと出会った。エリートですね、というと、いえいえ、と謙虚に照れ笑い。金華山は貴重な植物がいろいろとあるので、調べに来ているらしい。楽しそうだ。全員快活で賢そうだ。うん、時間が巻き戻れば、私も金華山に通いたい。貴重な人生の時間を費やしてでも、この唯一無二の植物・・自然を、研究したいものだ。




「あ、ヒル大丈夫でしたか?」と私のスリッパを見て一人が驚く。

ばれたか、と内心気恥ずかしく思うが、数時間ほど前のようにナーバスではない。金華山の神様と自然の山神が力をくれたのかもしれない。靴なんて、どうでもいいこと、まではいかないが、ちと歩きづらいだけ、くらいの平常心に近い感覚にはなっていた。




お詣りを済ませて、お目当の天柱石かと思ったら少し小ぶりだった巨石。もう時間がさし迫っているので、天柱石は次回のお楽しみとする。



二の御殿方面から雄鹿半島を見る。こちらも次回のお楽しみ。




海の見える穴の空いた木。楽園のようだ。こちらも懐かしい。




急いで8合目に戻ってくると、東北大学の方々がまだいらした。ついでに聞いてみる。ちなみに、どんな植物がめずらしいんですか?
「見かけたら写真に撮ろうかと」

いろいろとあるのだろう、少し考えてから「キンカアザミなんていいですよ」。


※写真はキンカアザミか確認していません


キンカアザミはダキバヒメアザミの変種で、金華山の固有種だそうだ。金華山にうようよいる野生動物・・中でも特に多いニホンジカ(神鹿)さえも採食しないほど、鋭く固い刺を持つ刺植物らしい。このような、野生動物に対して物理防衛や、また化学防衛をする植物らが金華山では多く残されているらしい。そういえば、帰りに山道で滑りそうになり、慌てて枯れ木を掴んだ・・つもりだったら、それがものすごい固い刺のある草の枝で、刺が刺さって血がでた。あれもキンカアザミの枯れた姿だったのか?? (急いでいたのでよくよく見なかった)その後3日間ほど、ざっくりと刺さった指が痛くてたまらなかった。

「キンカアザミ・・・(どんなアザミだろう)」

「ピンクの花が可愛いですよ」

といったかな、もっと専門的な言い方だったかもしれないが、丁寧に教えていただいた。




キンカアザミキンカアザミとつぶやきながら、8合目の分岐を山頂とは別方向へと歩き始める。
数分で山神社が見えてくる。こちらも懐かしい。この8合目から尾根づたいに歩いて、右手に海、左手に金華山の壮大な自然を見ながら、散歩する時間が大好きだ。船の時間が差し迫っているという重大な現実まで忘れてしまいそうだった。ガサッと音がして何かが出てきた、と思ったら、足元を大きなヘビが横断してる。




初めて見た! 恐る恐るまたいで先を急ぐ。ピンクの花が灯るように咲いている。これがキンカアザミだろうか。写真を撮る。左手には仁王崎が見えている。ススキの群生の奥に、小さな山神社の祠が見えてきた。





おお、感動の山神社。この祠が小さくて可愛らしいのだ。お久しぶりです。何か少し綺麗になったようだ。ボランティアの方が直してくれたのかもしれない。ここから見る雄鹿半島の眺めも最高だ。



急がないと。桟橋方面に船の軌跡が見えている。帰りの船が着いてしまった。急がないといけない。そう思うものの、私の金華山のプチ旅行はクライマックスを迎えていて、山の散歩が楽しくて仕方がないのだった。当日は天気が良かった。青い空に海がたまらなかった。天と地の境の消えた場所に浮いているようではないか。原生林のブナの力強い様。ニホンジカが目の前をかけて行く。二頭は左の林の木の陰からこちらを見ている。一頭は海側の斜面からだ。おーい、おーい、と声をかけると、立ち止まって、こちらをじっと見つめるのである。可愛い。何を見ても可愛くて愛おしい。楽しくてたまらない。ああ、金華山に住みたいなぁ。ずうずうしい願望がむくむくと湧いてくる。毎日この景色を見たいものだ。そんな私の気持ちと同調するように、キンカアザミらしき薄紫の植物は、道を行くほど増えて、今や群生で出迎えてくれるのである。ああ、残念だなぁ。もう時間がなくて撮れないではないか。









腰に巻いた服に長い刺付きの草を4つほどくっつけて(そのことに女川で気がついて恥ずかしい思いをした)、汗だくになって、表参道を駆け下りて、桟橋で待っていた船に到着した時の私ときたら、さぞやすごい形相だったことだろう。2分前に着いた。よくぞ間に合ったものである。




金華山の夢の余韻はまだ心の中を暖かくしていた。女川の新しい町を口ずさみながら歩いていく。さぁ、帰ろうよ。一人じゃないよ。そうついさっき、収穫祭の舞台で、仙台の歌手が歌っていたのだ。




いとうようへいさん

そうか。金山はずっと行くべき場所だと思っていたけれども、あそこは帰る場所だったのかもしれないなぁ。心が、帰る場所。


家に帰ろう。一人じゃない。歌手の歌声が続いている。何ていう歌だろう、インターネットで調べたが歌詞がよくわからなかった。金華山からいただいた今の気持ち、余韻にぴったりの曲。女川を訪れた人たちが、皆歌を聴きながら大きく手を振り上げて手拍子で笑う。異邦人ではなくて、この場所と一つに感じられた瞬間だった。




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秋も金華山は行事が目白押しです。是非ご家族でお出かけくださいませ!

※おまけ
女川のさんまおいしかったです。


※おまけ2
いとうようへいさんのようつべ見つけました!









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