MIYATRIXで宮古 浄土ヶ浜への道・その① 〜さながら極楽浄土の如し浄土ヶ浜へ〜



 念願の浄土ヶ浜は、青く、驚くほどに澄み切っていた。さながら極楽浄土のごとし、400年も昔の僧侶がそう感嘆するはずだ(※)。見るものの心も洗われるようだった。


(※)浄土ヶ浜の名前は、天保年間(1681年から1683年)に宮古山常安寺七世の霊鏡和尚が「さながら極楽浄土のごとし」と、目の前に広がる風景に感嘆したことから名付けられたともいわれています。




 私はといえば、この青い極楽浄土を前にして、人類の究極の目的とはなんだろう、などという通常ではあまり考えない課題の、その仮説を検証していた。

 【働きながら(文明に沿いながら)日々、疑問を感じながら生きている人は、皆、人生の矛盾に気付いている】

 まるで文明から遠く離れた(隔たられた)この浄土ヶ浜の自然の造形の美しさが、もしかしたら、私の仮説を後押ししてくれるかもしれない。極楽浄土は、人間が作り上げる文明の発展という一つの目標(人類の進化)とは、最も遠く離れた場所にあるように思われたからだ。魂(意識エネルギー体)への回帰と、肉体(人類)の進歩は矛盾する。もしそうならば、私たちは、本当の意味での、人類の究極の目的に近づきつつあるのかもしれない。少なくとも、文明の力に翻弄され、席巻されて、必然的に負け続けるということは、文明とは別の力の才能があるということだ。







宮古浄土ヶ浜遊覧船から見た津波被害 ボロ負け後の浄土ヶ浜です。


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 浄土ヶ浜に行ってきた。出張している間に一度は行きたいと思っていたが、宮古市までは行くものの、その先が近くて遠い。なかなか極楽浄土の景勝にたどり着くことができなかった。
 出張期間も終わりに近付いたので、重い腰を上げて行ってきた。
 ついでに、こちらもやりたくて延ばし延ばしになっていた、宮古市のミッション(イングレスミッション)、「MIYATRIX」を制覇することにする。「MIYATRIX」ミッションには浄土ヶ浜巡りも含まれている。

 以下、ミッション通りの順番で、宮古市を一周をしたご報告だ。時々、趣味により脱線もしている。脱線途中で、敵エージェントさんと出会い、宮古のオススメの海鮮(が食べられるところ)を紹介してもらい、さらなる脱線も発生した。が、たいてい順を追っての写真が続くので、宮古市のご紹介と、「MIYATRIX」ミッション経路のご紹介とを兼ねてのご報告を、楽しんでいただければ幸いだ。

 ちなみに、1回でまとめられなかったので、2回で終わる予定である。




 宮古浄土ヶ浜への旅、のスタートは、本州最東端のリアスハーバー宮古である。

 ・リアスハーバー宮古

リアスハーバー宮古からの眺め

 ここから徒歩5万歩の旅が始まった。ハーバーの施設にマウンテンバイクがあったので、借りようと思ったら、当然と言えば当然だが、施設内しか利用できないとのこと。
 
 


 45号線を2キロほど北上すると、山田線が見えてきた。「磯鶏(そけい)駅」だ。




 目の前に「SL公園」なるものがあり、本物のSLがどん、とある。
 驚いた。でかい。



 国鉄より1976年に宮古市に寄贈されたそうだ。1914年、兵庫の造船所で作られた。なんと現役時代に地球を70周したという功労者。




 しばし、勇姿に見とれる。




 写真を撮っていたら、磯鶏駅トンネルの向こうから、工事作業員とユンボ?(2台ほど)がわらわらと出てきた。山田線の復旧工事中らしいと気がつき、大興奮。

 がんばれ〜!と(心の中で)叫びながら、写真を撮らせていただいた。作業員たちは不思議な顔をして、心なしか笑いながらこちらを見ていたようだが。




 記念碑や石塔(墓標)が多く見られるようになった。戦いのあった宮古港が近い。

 磯鶏駅からまた45号線に戻り、そろそろ日が暮れそうになってきた、右手にチラリと見える宮古湾を気にしながら、どこか(うまい具合に)夕景が撮れるところはないか、と願いながら進んでいく。




 観音堂のそばに幕軍無名戦士の墓があった。宮古市では、維新後(大政奉還から2年後)に旧幕軍と官軍との激しい戦いがあった。俗に宮古湾開戦と呼ばれている。なので、その戦い由来の場所に、記念碑や戦士たちの墓碑が多いのだ。

 今回の宮古の旅で、この記念碑に墓碑を何度も目にするうちに、私は感慨深い気持ちになった。

 坂上田村麻呂に攻められた出雲族。官軍(薩摩長州らの新政府軍)に攻められた旧幕府軍。どちらも似たような状況に思えたからである。東北に逃げて最後を遂げた。歴史は繰り返すというが、本当である。

 いや、正確には、東北(蝦夷)と九州(隼人・熊襲)というべきだろうか。悪く言えば、負け犬の逃げ場所、よく言えば、そもそもが反骨精神のあるお国柄なのかもしれない。
 




 これはまた古めかしい踏切が出てきた。黒石踏切だ。



 踏切の先にはトンネル。
 ここを進むと、先ほどの磯鶏駅にたどり着く。

 (SLも走ったのだろうか?)



 観音堂を横切って、進むと、仮設住宅が現れた。藤原仮設住宅というのだそうだ。
 大きめ(長め)の住宅が3棟並んでいた。

 そのすぐ先に、藤原比古神社がある。閉伊地方を統治していた閉伊頼基の妻、音羽御前を奉る神社だそうだ。



 うまい具合に高台になっている。




 戦いの舞台の宮古湾が見えた。



 燃えるような夕焼け、とはいかなかったが、日暮れ時の月山方面もよく見える。

現在地(青丸)

 左手に見える丸くこんもりしたところが、浄土ヶ浜だ。
 どうやら今日は辿り着けそうもない。




ここからは(浄土ヶ浜の旅は中止)、道の駅や宮古港など、興味あるところを散策した。




 閉伊政権(※)の名残りの名称、閉伊川を見ながら。

 (※)海の幸を取って生きていた縄文人時代から、弥生以降の中央政権の統治へと導いたとされる宮古の古い権力者一族。坂上田村麻呂と似たような感じでヒーロー的な存在。(らしい)






 宮古港。夜でも明るい。多数の船が停泊していた。




 今日のミッションはここまで。(メダル2個だけに終わる)




 日曜日。早起きをして、宮古へ向かう。閉伊川を渡るところの続きからスタートした。


 
閉伊川



 道の駅みやこの広域交流促進施設、シートピアなあどの物産販売コーナーを見に行った。宮古の野菜や魚介類、特産品が販売されているそうだ。
 

  入り口で、宮古のエージェントさんとばったり遭遇。
  宮古の海鮮を食べたいと思っていたので、オススメの店を尋ねる。駅前の魚菜市場の海鮮丼が女性に適量でネタも新鮮で美味しいのだそう。店の場所のポータルを教えてもらって、礼を言って別れる。
 宮古駅からほど近くだった。ミッション終了後に寄るにはちょうどいい。1回目の時は時は何も食べられず帰宅する羽目になったため、この日はミッション終了後の海鮮丼を楽しみに歩き続けた。

 ・ちなみにここです。次回に絵が出てきます。 ⇨協同組合 宮古市魚菜市場






 その前に、海鮮丼までまだ先が遠いので、なあど名物の「海の恵みのソフトクリーム」をいただいた。

 深層海洋水で作られたソフトクリーム。(ソフトクリームの)緑色はワカメですか?と聞いたら、企業秘密なんだそう。








 海の恵みのソフトクリームは、なあど2階のレストラン汐菜さんで売っている。
 表の売店(ここもソフトクリームを売っているが別物)ではないので、お間違えのないように。







 海の恵みのソフトクリームはここで。海鮮も美味しいんだそう。




 なあど2階からの眺め。




 企業秘密!!美味しかった!ごちそうさまです。

 なあどは特産品が目白押しだった。特に農産物の種類が多く、どの野菜も驚くくらいに安かった。



 今日の続きは湊大杉神社から。ここも宮古湾海戦記念碑がある。
 今度の石碑は、海戦に官軍の一士官として参戦した東郷平八郎が書いた題字なのだとか。今までは無名戦士ばかりだったが、突然の大物の登場だ。記念碑を見るのを楽しみに、先を急ぐ。



現在地

 正面に、宮古漁港ビル、その奥に宮古湾が見える。





 織部灯籠と、鴨墳の碑。






 宮古湾海戦は、官軍の8隻の艦隊に対して、旧幕府軍は1隻で応戦・・というより、奇襲をかけて突撃したのだという。その冒険的な戦術と、勇気とを讃えられて、宮古港海戦の戦史は、宮古の海軍教育に欠かせないものとなった。
 また、日本人による洋式の海戦のさきがけとして、顕彰されてきたのだそうだ。




 戦没者の観音像もある。
 なるほど、歴史は繰り返す・・東北の事情から、(心情的に)負けた方に寄り添ったわけではなくて、戦術と勇気を買われたわけだったらしい。

 その戦術と勇気が、東郷平八郎に受け継がれた・・・と。




 湊大杉神社からの眺め。



 目の前の宮古漁港ビルにやってきた。
 なかなか、歩かせるミッションである。

 都内と違ってポータルからポータルの距離があるので、疲れるが健康には最高にいいかもしれない。

 で、その漁港ビルにいる胸像、山崎権三先生は誰かというと。





 戦後の宮古漁業協同組合の開祖だそうだ。津軽石に生まれ、貧しくて満足に教育を受けられなかった。だが、諦めず、独学で学び、そして、宮古の漁業組合に書記として雇われた。その恩を返そうと思ったのだろう、宮古の漁協と近代漁業の発展、人材の育成に、一生をかけて尽力したのだそうだ。




 それから、宮古湾を見渡せる側には、石川啄木の寄港の碑がある。
 啄木が、宮古の港に降り立って、率直な感想を書き連ねた文章だ。興味深く読ませていただいた。




 啄木は文学に賭けて背水の陣でやって来た。悲壮な船旅だったらしい。



 〜〜以下、寄港の地の碑・啄木日記から抜粋〜〜

 起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が限界を閉じて、海は灰色の波を挙げて居る。
 船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。 十時頃瓦斯が晴れた。午後二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない。四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先に届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になったり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、かびの生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗った抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼った女の家でウドンを喰う。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習って居た。芸者にするかと問えば、“何になりやんすだすか”  
 夜九時抜錨。同室の鰊取り親方の気焔を聞く。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ (続く)





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