横浜散歩 再訪編 氷川丸からの手紙



 横浜の氷川丸といえば、いまさら見る必要もない、あれは山下公園(横浜)の象徴であり、元は外国人向けの豪華客船で現在はデートスポットのアイコンだから、軽薄を絵に書いたような・・それは言いすぎだけれど、とにかく、もう船というよりはそこにあるのが当たり前の物体と化していた。
 最後に乗ったのは、あれは三十代になったばかりの婚活に励んでいた頃で、しかもクリスマスイブだったと記憶している。いや、いかにも、氷川丸によく似合う、私との最後の接点ではないか。
 それが、IPhone5を買いに行った日の午後、突然やつに乗ることになった。
 友人のK氏との約束に間に合わず、そう、auの店員があまりにも丁寧なものだから、時間が押して、家に帰って着替えて一眼を持つ時間もなくなって、私は着の身着のまま、IPhone片手に関内へと向かっていった、その日の午後のことであった。

 K氏は懐石料理の豪華なランチを食べたばかりなのだ。ふらり散歩をして、氷川丸を見終わった頃ならば、開業85周年を迎えたホテルニューグランドの春のフェアメニューだってもっと美味しく食べられるに違いない、そう思って私は激しく横浜散歩に同意したのだけれど、まさか先週のリベンジをするつもりもなければ、氷川丸にいまさら乗る気もさらさらなかった。
 今の私は、IPhone5しか持っていないし、もちろん婚活もしていない。
 









 氷川丸には雛人形が飾ってあった。
 それで私はますます罪悪感を覚えるのだった。過去に対して、それから、雛人形に対して。今年は押入れから出してもいなかった。雛祭りではなくて皺祭りだ、とユーモアでおっしゃっていた蔵友さんがいたが、まぁよく言うものだ、たしかに自虐的に笑い事にでもしなければ私の場合はさらにイタイ。もう今年は面倒くさいし、出すのをやめようかと思っていたのだ、それをこんな過去の亡霊が突然現れたような氷川丸の船上で、思いがけなく目にしてしまうとは思わなかった。
 

 K氏は真面目なものだから、展示品の横の説明文をひとつひとつ丁寧に読んでいる。私は不真面目なものだから、後で必要なものだけ読めばいいや、と説明文をIPhoneで撮っている。
 婚活時のクリスマスイブにあれだけ船内を見回った記憶だけあるものの、私は何一つ氷川丸の船内を覚えていなかった。
 フランス人工芸家のマーク・シモン(1883〜1964)によるアールデコ様式と言われてもピンと来ない、1等サロン、喫煙室、食堂と入口階段で、今でもマーク・シモンの幾何学的な線やパターン化された模様の優れた記号的表現的デザインを見ることができるのだと言われても、豪華客船だけにそれは当然だよね、と思うくらいで感慨もなく、ふん、そうですか、と通り過ぎてしまうのである。

 むしろ驚いたのは、やつの戦争にまつわる過去の話だった。「氷川丸と戦争」、これは横浜の象徴とも、今のアイコンともかけ離れていて、あらためて、というより、初めて、感慨深い思いがしたものだった。















  
 氷川丸、1930年、横浜船渠(せんきょ)(株)(現、三菱重工業(株)横浜製作所)で竣工される。B&W社(デンマーク)製の最新鋭大型・高出力ディーゼルエンジン2機を搭載し、最高速力は18.2ノット(時速約34キロメートル)、シアトル航路の優秀貨客船。

 1941年日米関係の悪化で航路を休止。在日外国人の帰国と海外残留邦人の引き揚げを担う。
 
 太平洋戦争後は船体を真白に塗られて、「白鳥」の愛称のもとに、特設病院船として南方の島々から傷病兵を日本へ運び続ける。その数(終戦までの3年半で)24航海。

 1944年、敗戦が色濃くなると、1,000の定員のところ3,000人を乗せて、南方の島々と日本の間をピストン輸送、3万人を超える傷病兵を運ぶ。
 
 機雷に激突すること3回、次々と沈んでいく大型商船を尻目に、戦禍の中で、唯一生存して終戦を迎える。

 終戦後は1年半をかけて、南太平洋に残された病気と飢餓に苦しむ兵員と引き揚げ邦人2万8,000人を日本へ輸送、多くの命を救う。

 1947年、引き揚げ船としての役目を終え、それから2年間、北海道航路で食料品や石炭を運び、戦後の食糧難を支え続ける。

 1950年、連合国軍総司令部の管理下から解除される。日本郵船の管理に戻る。

 1953年、再開された外航航路に就航後、本格的な客船業務の再開に向けて船内を大改装、7月に12年ぶりとなるシアトル航路復帰を果たす。

 1960年8月、シアトル航路復帰から7年間にわたって貨物と、米国と日本の教育交換制度である「フルブライト留学制度」の渡航者約2,500人と、乗客約1万3,500人を輸送して活躍するも、航空機時代の幕開けにより、横浜港を出港する航海を最後に引退。























 氷川丸を見たあとは、ホテルニューグランドで食事をする。ホテルニューグランドは、古いホテルだ、マッカーサーが愛したホテルとして知られている。ここは、三十路を超えて婚活を諦めた頃に、女友達と泊まったのだったか。カフェで豪華な食事をした、という記憶の方が鮮明で、そういえば泊まって、レディースフェアのアメニティをもらったなぁ、ということを今の今思い出して、正直驚かされている。そうだ、婚活を諦めたあとから、やけに女友達と遊び始めたのだった。

 私は氷川丸のあのクリスマスイブに象徴される婚活の果てに、やっと一人の、最愛の人を見つけたのだった。相手に結婚する意思がないと知らされるのは、それからまだ10年近く、後のことだった。
 
 













 食事の前に桜のアイスミルクティーを、それから新ジャガイモのポタージュと天使のエビのアメリカンをいただいて、夜も更けた頃、あっけなく駅へ戻ろうとするK氏にシーバスに乗ろうと提案する。

 氷川丸は私の思う氷川丸ではなかったとしても、ああ、だからこそ救われる思いなのだが、こんな春の澄んだ夜は、横浜の夜景が、良く似合うではないか。















 夜の8時前に家に着いた。私がホテルニューグランドのアメニティをもらうことは、おそらくもうないだろう。
 それでも、私は満ち足りた思いで眠りに付いている、日本郵船の客船には船ごとにデザインの異なる絵はがきが用意され、船内のポストに投函すると、オリジナルの消印が押されたという。日本の景色が描かれた美しいそれらの手紙、氷川丸のポストから届く手紙を、まるで待ちわびるかのように眠るのだった。
 夢の中で、もしも受け取ることができたならば、今度は誰かに、私が届けるだろうと予感しながら。





☆出典☆
氷川丸
ホテルニューグランド