山陰旅行編最終話 蛍の光響くとも ~鳥取砂丘と鳥取城跡~



 今日が最終話です。山陰旅行の最終行程は、鳥取砂丘と鳥取城跡巡りでした。

 鳥取城ですが、実はここ、周る予定がありませんでした。鳥取城は鳥取県と鳥取市(旧・因幡国邑美郡)にある山城跡です。鳥取駅から徒歩で30分、バスで15分程のところにあります。山が紅葉でいい具合に染まっていました。山頂の山上丸の石垣を見上げて、あんな天辺まで城跡を見に行く物好きな人がいるんだなぁと思ったくらいです。城マニアですよね?



水堀と鳥取城跡 肉眼では山麓と山上丸の石垣が見えました


 私は鳥取砂丘を見て、そのまま帰るつもりだったのです。慌ただしい旅でしたので最後くらいはのんびりしようと思っていました。砂丘の砂に寝転んで、日暮れまでずっとそうしていようか、なんて思っていました。
 ところが、そんな私をがぜん山城の山頂の山上丸(登城が厳しいことでよく知られています)へと向かわせたのは、大手門傍に立っていた城主・吉川経家(きっかわつねいえ)の像でした。







 小さな侍だなぁ、と何気なく見つめたあと、ふと像の隣にあった「吉川経家の鳥取城篭城と自刃のこと」という文章を目にします。
 
 鳥取城といえば籠城戦、秀吉による強烈な兵糧攻めが行われたことで有名でした。それは、「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれていて、鳥取城に籠った城兵や民衆(雑兵)4,000人が飢えて、最後には親が子の肉を喰らうという阿鼻叫喚の地獄絵を生んだそうです。

 信長に中国地方の攻略を命じられた秀吉は、まず若狭国の商人を使って因幡国内の米を高値で買い集めました。それから数年をかけて因幡国一円に及ぶ包囲網(※注)を構築し、鳥取城に対する大規模な経済封鎖を行いました。
 また、鳥取城のすぐ東方の太閤ヶ平(たいこうがなる)に、本陣を構えました。


 ※注・秀吉による3重の厳重な包囲網 
 太閤ヶ平を中心とした包囲網。毛利方に属していた、賀露港・二上山城・雨滝七曲城・市場城・生山城・船岡城・景石城・若桜鬼ヶ城・弓河内城・鹿野城を攻略したことによる、因幡国一円に及ぶ包囲網。毛利方に属していた東伯耆の南条元続、南美作を支配していた宇喜多直家を調略したことによる、中国地方の東半分に及ぶ包囲網。




秀吉による鳥取城兵糧攻め、「地獄のr戦」のことが
記されている文献です。クリックすると大きくなります。



 対する吉川経家は石見国福光城の城主の嫡男として生まれました。
 秀吉の山陰侵攻が必至となり、鳥取城を守る軍勢が吉川一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇願した際、山陰方面の総大将・吉川元春から、鳥取城城将として任命されたのです。鳥取城の守備が使命でした。
 経家は、部下4,000人を率いて入城しました。自分の首桶を用意した、決死の覚悟だったといいます。

 私はとても興味を覚えて、なぜならこの願いから始まった山陰旅行は、この国の迎える岐路を思ってのことでした。もしもこのまま道を誤れば、鳥取城兵糧攻めのような用意周到な包囲網が構築され、最悪の場合、私たちは経家と因幡国の二の舞、阿鼻叫喚の現代の地獄絵に陥ってしまうことでしょう。

 山陰旅行は石見国から始まりました。そして旅の最後に出会ったのが、この地の守備を最後に任された石見国生まれの吉川経家です。

 彼は自分の命と引き換えに、兵と民の命を救って、秀吉の開城の求めに応じました。35歳の若さで自刃しました。

 鳥取砂丘で帰りの便までのんびり過ごす計画を取りやめました。経家に鎮魂の祈りを捧げなくてはなりません。私は、鳥取砂丘を見たあと、また鳥取城跡に戻ることになるのです。

 



 鳥取城跡からバスに乗って10分もすると、鳥取砂丘に到着します。
 ここでは印象的な景色を楽しませていただきました。

 山城に登るのを後回しにしたのは、日が高いうちにどうしてもこの青空の下の鳥取砂丘を見たかったからでした。
 私は鳥取砂丘を見たことがありませんでした。

 なぜ、日本に砂漠に似た美しい砂丘があるのか、以前から不思議に思っていました。砂丘とは風によって運搬された砂が堆積して丘などの地形を作ったもののことです。鳥取砂丘は中国山脈から千代川によって日本海まで運搬される土砂がやがて砂となり、北よりの風により海岸に吹き上げられ堆積してできました。

 そもそもは、中国山地の樹木を伐採して、その森林破壊によって、大量の土砂が流されてきたのだそうです。中国地方では古くから「たたら製鉄」が盛んに行われ、そのために燃料としての大量の木材を必要としました。
 ちなみに、たたら製鉄とは世界各地で行われた初期の製鉄方法です。宮崎アニメの「もののけ姫」に出てくる「たたら場」は、この中国山地の「たたら製鉄」を原型にして作られています。

 もののけ姫のチャプター9には、この「たたら場」とちなんで「国崩し」という単語が出てきます。
 「国づくり」から「国譲り」、そして「国崩し」へ、これも一連の旅のつながりなのか、落ち着いたら「もののけ姫」をあらためて見直さなくてはなりません。宮崎駿さんの警告をあたらめて読み取って、私なりに発信していきたいと思います。

 「たたら場」からなる砂丘と言われると、多少複雑なものがありますが、しかしそれを差し引いても、砂丘の景色は素晴らしいものでした。
 
 特に馬の背と呼ばれる砂丘列から眺めた日本海の青さとその壮大さといったら、言葉に尽くせないものがありました。どうにかして、この印象的な絵を撮りたいと願いましたが、180度の海を収めるにはレンズが足りません。腕も技術もなくて残念な思いです。
 突き抜けるような青い海に、青い空。異国的な黄な粉色の砂丘がどこまでも続きます。風紋もなんと美しい。ここは日本だろうか。砂丘列から海を眺めていると、まるで別世界のように感じられました。人生観が変わる思いでした。
 鳥取砂丘を見たことがない方がいらっしゃいましたら、ぜひ一度見てみることをおすすめします。できれば、天気のいい日が良いかもしれません。裸足で砂丘を歩くと、楽しいそうですよ。また、美しい風紋を見るには、風の吹いた朝が良いそうですので、晴れた日の、風の吹いた朝に、ぜひ鳥取砂丘を訪れてみてください。

 ちなみに、因幡の白兎の舞台となった白兎海岸は、ここから鳥取空港を挟んで、わずか13キロメートルほど先に並んでいます。(車で20分ほどです)



鳥取砂丘 馬の背















 鳥取砂丘は海外からの旅行者も多かったです。写真を撮ってください、と頼んだら、日本人のような顔をしていたのに、首を傾げられました。どうやら韓国から来た方のようでした。馬の背では、手足を広げてジャンプをしている様を、成功するまで写真に収めている欧米の方々もいらっしゃいました。グループで来ているようでした。
 私も真似して、連射モードに切り替えました。上のらくだの写真はそんな連写モードで撮った一枚です。モデルさんになってもらい、激写してしまいました。尻尾を振って、とても可愛らしかったです。

 砂丘も十分に楽しませていただきました。太陽がこれ以上傾かないうちに鳥取城跡へと戻ります。
 ループ麒麟獅子という鳥取の見どころを廻ってくれる周遊バスに乗りました。車体と座席に麒麟獅子の絵柄が書かれていて、レトロな造りの車内も素敵でした。
 
 
 ループ麒麟獅子時刻表



ループ麒麟獅子 一律300円で見所を廻ってくれます。

しゃんしゃん傘の後ろ姿もいいですね さようならループバス



 さて、ついに山城に登ります。私は最近運動不足で、また旅用の軽装をしていたものですから、本音を言うと多少自信がありませんでした。息が切れたらどうしよう、万が一日暮れになっても降りられなかったら・・ と心配したのも事実です。山が寂しそうに見えたことも手伝いました。中腹の二の丸跡を過ぎると、ぐっと人気がなくなると感じたのです。また、ここは阿鼻叫喚の舞台だったところでした。
 大手門の前で屋台をしていた年配のご婦人に、このあたりにコインロッカーはありませんかと尋ねると、不思議そうに見つめられて理由を尋ねられました。

 「山城に行くのに、少し荷物を預けたかったものですから」
 
 婦人はたいそう驚いた顔で、「あんた、山頂まで行くつもりかい? 今から?」

 ところが、登り始めると、これがとても楽しいのでした。寂しく思えた山も、地元の人に愛されているのでしょう、何人もの小さなお子さんを連れた家族連れや散歩ふうの夫婦連れに出会います。またトレイルランニングを楽しんでいるらしき年配者ともたびたびすれ違いました。それですっかり安心してしまいました。
 自然に触れるのも久しぶりのことでした。紅葉や樹木の景色を楽しみながら、登ることができました。山頂の三上の丸に着いた時には、もう着いてしまったかと、残念に思ったほどです。


 山上の丸は外桝形虎口の連続で、防禦と出撃を複合させた技巧的な縄張り技術で施された優れた近世山城です。「L字の石塁(土塁)」による外桝形虎口の通路空間が肥大化して、曲輪を形成する、肥前名護屋城(東出丸)や福岡城南二の丸と同じ用法のパターンで築かれた縄張りです。

 優れた武将に、優れた城。石見国の吉川経家と、この技術的な近世城をもってしても、兵糧攻めには敵わなかったのか、と深い感慨がありました。
 やはり食は大切ですね。食べ物を抑えられると、人間は弱いです。
 すぐ傍に秀吉が陣を構えたという本陣山の(本陣部分の)太閤ヶ平がありました。しみじみと見つめて、酷なことをするものだと思いました。
 秀吉は好きな武将のひとりですが、「鳥取城の渇え殺し」に関しては共感出来かねるものがあります。初めて、その用意周到な、非情な才覚に疑問を覚えてしまいました。


  鳥取城 鳥取城の山城地図が描かれたサイトです。


二の丸の紅葉

二合目

三合目

四合目

五合目にある大権現の祠

五合目

中坂道からの景色

六合目

七合目

八合目 小さな子ども達の姿が多かったです

水路が続いています

山伏の井戸跡

山伏の井戸跡

九合目

山上の丸二の丸辺りからの眺望

天守台からの眺望

天守台からの眺望 

秀吉が陣を構えた本陣山 本陣部分の太閤ヶ平が見えています


北側に日本海と鳥取砂丘が見えます


山城跡がある久松山山頂の紅葉

天守台で日暮れまで粘ります

天守台

天守台

西の千代川方面に沈む夕日





 山頂について、ふと空腹を覚えました。朝ご飯のあと何も食べていませんでした。何か、お弁当でも買ってくればよかった、と思ったあとに、この山城跡でご飯を食べたり、食べ物のことを考えることは不謹慎のように思われて、自分を戒めました。
 それでも、喉の渇きに耐え兼ねて、吉岡温泉の宿を出るときにお土産としてもらっていた梨を、ひとつ頂きました。とても申し訳ない思いがしました。(誰ひとり山頂でお弁当を広げている者などいませんでした)

 山頂の丸に着いたときは、何組かの親子連れに夫婦連れの方々がいましたが、日が傾いてくると、次第に一組二組といなくなり、私一人が残されます。私は日暮れ時までここで粘るつもりでした。山陰旅行最後の日没は、この山城で迎えたいと思っていました。
 ですが、不思議と、一人になってもすぐに、また親子連れが訪れます。彼らが消えると、今度はウォーキングといったていの夫婦連れが現れます。

 「やっぱり写真を撮ってもらえますか?」

 一足先に山城を降りた父親と、5歳ほどの娘さんが戻ってきて、私に声をかけました。私は喜んで頷きました。つい先程、親子の山頂での記念写真をスマートフォンを使ってご自分で撮ろうとしている父親に「良かったら撮りましょうか?」声をかけて、断られたばかりでした。
 夕日の中に佇む親子の姿を二枚程撮りました。二人とも笑っていて、とても楽しそうでした。
 次の夫婦連れは、この山頂で何度も交わされたであろう会話を始めます。穏やかで、日常的な、たわいもない言葉でした。「今日は、・・・が綺麗に見えるね」

 私は今の平和を思いました。経家と家臣たちはどんな思いで、あの時、ここで夕陽を見たのだろうか、と思いました。もう二度と、彼らのような思いを、誰かがすることがないようにと願いました。


 夕暮れを迎えました。日が沈む直前まで、山頂の丸で粘りましたが、城下の町を包み込む夕焼け色は、ついに現れませんでした。明日への希望を感じさせる情熱的な空よりも、けれど今日の旅にはふさわしいような思いがしました。
 まだまだ明日は厳しい。美しい月が、夜空を照らしていることだけが救いでした。

 


二の丸跡

天球丸

鳥取市街 明かりが灯り始めました

仁風閣 大正天皇の山陰行啓の宿舎として使用されました

鳥取城唯一の城門です

アベ鳥取堂さんのかに寿し

美味しかったです この平和が続きますように



 旅の締めくくりは温泉です。鳥取駅から徒歩12分のところにある鳥取温泉を利用した銭湯、元湯温泉さんです。

 鳥取温泉は、現在の吉方温泉町で明治37(1904)年に発見されました。大正になって本格的な掘削を行い、最初に出た温泉なので、地元の人々から「元湯」と呼ばれるようになったそうです。

 驚いたのは、入浴料金が350円と、関東に比べてずいぶんお安いことです。それに、とても混んでいました。後から後から、入浴に訪れる人がやって来ます。洗い場が空かないので、ずっと温泉に浸って待っている人がいるほどでした。
 鳥取の人は家のお風呂より、銭湯が好きなのでしょうか。壁には懐かしい富士山の絵が現代風のポスターとなって飾ってあります。懐かしかったです。公衆浴場のルールも書いてありました。子供に向けてのものです。お風呂で人と人との関係や、社会のルールを学ぼうという意図のものでした。
 子供だけではなく、大人にも通用すると思いました。もっと関東でもみんなが銭湯に行けばいいのに。文化が廃れると共同体という資産が一つずつ消えていきます。日本には良い文化がたくさんありますので、その中で人と人との関係や社会のルールを学んで、心を豊かにして、この共同体を守っていけたら素敵ですね。
 


元湯温泉さん

閉店の音楽「蛍の光」が聞こえてきました




 蛍の光が流れ始めました。閉店とともに、山陰旅行も終わりです。
 国譲りから始まり、平和の尊さを思う祈りの旅は、温泉と、共同体を大切にする人々との温かさをもって、終を迎えることになりました。店じまいの曲が心に響きます。

 蛍の光、別れの唱歌。原曲はオールド・ラング・サイン、忘れがたい友愛のメロディ、スコットランド民謡です。


 筑紫の極み 陸の奥

 海山遠く 隔つとも

 その眞心は 隔て無く

 一つに尽くせ 國の為

 
We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,






 最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

 次は、福島旅行編で、またぜひお会いしましょう。
 




☆出典☆

吉川経家 オールド・ラング・サイン (ウィキペディア)
砂丘王国
鳥取城跡(山上の丸)はぜひとも。









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