「ただそこに在るだけで」 ~2012年8月18日 御殿場ルート富士登山記~



 

 最終バスには6人の乗客が乗っていた。
 若い男女。いかにも山ボーイと山ガールふう。青年とは御殿場線でも一緒だった。隣に座り、30Lの登山用ザックを足元に抱えていた。やはり富士山に登るのだろうか。同じ御殿場ルートだろうか。私の見定めるような視線を振り払うかのように、青年は駅の出口へ駆けていった。改札の前には少女が顔いっぱいの笑顔で彼を出迎えた。
 それから中年の男。こちらは疲れたサラリーマンふう。ジャージのような体にぴったりしたサイズの登山ウェア。だらしなく伸びた髪。背が高い。痩せているが、腹だけが出ている。私の斜め後ろで大人しくバスを待ちわびていた。
 中年の男がもうひとり。タイプが全く違う。濃い顔、意志の強そうな眉。時々奇声を発する。長く伸ばした声をあくびかため息のようにごまかして、続けて何やら愚痴らしき言葉を呟いている。バス停の先頭にミレーのザックを置いて、順番を確保してから、発車時刻近くまでどこかへ消えた。
 そして、「自衛隊」。これは私が付けたあだ名だ。彼はバス停前の車道を走ってきた。短く刈り込んだ髪にミリタリー調のキャップ、同じく迷彩柄の7分丈のカーゴパンツ。驚かされたのがその足元だ。ビーチサンダルを履いていた。あれで登るのだろうか?

 バスが到着すると、予想通り、先頭にザックをおいた中年が真っ先に乗り込んだ。奇声を発しながら、運転手の真後ろの、前から2番目の椅子に腰をかけた。
 バスの席というものには序列がある。後ろの席は酔いやすく、降りづらいので席次的に最下位だ。運転手の真後ろが一番いい。ところが、標高1440mの御殿場口行きのバスは普通以上に大きな車輪が付いていた。もしくは車体が低かった。最前列の座席はタイヤの上にやけに飛び出して備え付けられており、その背もたれも低く、座りづらかった。足の置き場もない。ついそこに座ってしまってから、私は「ハッキョウ」(発狂=奇声を発する中年のあだ名)が正確に最上位の座席を見抜き、手に入れたことに気づかされた。
 ガタガタ尻に響いてなんと座り心地の悪いことよ。トイレが近い私は状況が許す限り、最前列の席を選択する癖がついていたが、これは明らかに失敗だった。背もたれにもたれかかって体を休めることもできやしない。
 終点の富士登山口まで40分、手持ち無沙汰に何度か隣を見た。反対側の最前列には「自衛隊」がいて、前方を射抜き、背筋を伸ばしていた。だらしないのは足元だけで、足場に収まりきれないビーチサンダルの長い脚が座席の横から飛び出している。私の驚きをよそに、彼はあのバス停の前から走ってきた時、黒いハイカットの登山靴を、紐を掴んで持っていた。今、それを両手で包むようにして、膝の上に載せていた。
 「自衛隊」にとって、登山靴で富士山頂を目指すということは恥ずかしいことなのではないだろうか。思わずそう思ってしまうような隠し方だった。

 
 バスは徐々に高度を上げていた。何度か、耳に膜が貼るような違和感を覚えた。車窓の外は豊かな緑が広がっている。その景色から、富士の裾野にあるという青木ケ原の樹海のことを想い、死を連想した。バスは護送車のようにも思えた。これから審判の下る旅に出向いているような神妙な趣きになった。

 6人がバスを降りると、私と同年代くらいの女性が待っていた。派手な登山ウェアに偏光サングラス。御殿場ルートのマップを手にしていた。おそらく県か観光協会の職員なのだろう、彼女は私を呼び止めて、
 「初めて?」
 「いえ、3度目です。御殿場口は初めてですが」
 「全員揃ったら、ちょっと説明をするから集まって」
 彼女はちらりと登山マップを見せた。御殿場ルートの詳細が書かれている。出発前にインターネットで目にしたものと同じもののようだ。有無を言わさぬ口調に不快感を覚えたが、地図をもらいたい一心で素直に返事をした。わかりました。

 「その前にちょっとトイレ行ってきます」

 走り出した。5人が準備やトイレや、各々勝手に動いて、すぐに集まらないことを祈った。御殿場ルートは、登山口のトイレを逃すと標高3000mを超える7合目まで、ない。ここで行けるかどうかが旅の無事を左右する、私にとっては死活問題だ。そのくせ、説明を聞き終えたあと、一斉にスタートされたら、一人でトイレに行く勇気はなさそうだった。つい、遅れを取るまいと歩き出してしまいそうだ。私は6人の中で一番遅いタイムだろうと予想していた。これから夜間の道中を思うと、不安もある。スタートは肝心だった。行けるところまで付いてきたい。
 人気がないコースと聞いていたが、まさかこれほどとは思っていなかった。トンネルのような大きな配管に作られたトイレ、異様な中に恐る恐る入る。ここも人がいない。いま登山口辺りには私たち6人とあの女性スタッフしかいないだろう。あらためて思い知らされた。急いで済ませて戻ると、5人が女性を取り囲んで説明を受けている最中だった。間に合わなかった。勝手に行動したのは私だけだったようだ。走って行くとちょうどお開きになる。

「終わっちゃいました?」申し訳なさそうに彼女に声をかける。
「ああ、でも一応ちょっと説明をしておくね」

 気にしていないようで、笑いながら御殿場ルートの注意点を教えてくれた。次郎坊までは左の登山道。そこからは右。登山道と下山道は違うので、間違っても下山道を行かないように。火山灰の砂れきが深くなっているので、ここを登ると足が疲れるからね。登山道と下山道が合流する7合4勺、次郎防からここまでは気をつけて。ジグザグのルートの左側は何もなくて、夜中道が見えづらいから。よく人が転げ落ちます。死人も出てるからね。

 「死人」とさらりと言い、相変わらずの笑顔だった。気を引き締めた。説明が終わった頃、登山口には「カップル」しかいない。「オヤジ」も「ハッキョウ」も「自衛隊」も姿が見えなかった。「カップル」だけが、笑いながら鳥居を背景にお互いを撮り合っている。

 「おーい、撮ってあげようか」女性が声をかける。
 「あー! ありがとうございます」

 2人並んで登山口に立った。満面の笑み。突然、銃声のような暴発音が響く。驚いて駐車場の先の豊かな緑を振り向くと、「あれは気にしなくていいから」とスタッフ。陸上自衛隊の東富士演習場が近いのだった。銃声よりは太かったので、大砲の発射音だろうか。翌週が公開総合火力演習だったので、事前に練習でもしていたのかもしれない。
 この大げさな暴発音は、夜中に何度も響き渡り、その度に私の心臓を冷えさせた。
 写真を撮り終えると、「カップル」は足早に登り始めた。すぐに姿が見えなくなった。あれほどこの審判の船に乗り合わせた5人と別れ難く思っていた私も、さすがに彼らの跡を付いていく気にはなれず、砂れきの地に座り込んで、靴紐を直しただけだった。
 霧が出ている。山頂は隠れていた。スマートフォンで富士山頂を確認する。コンパスの磁北を合わせ、山頂に向けてセットして、それをグレゴリーのナバリノのショルダーに結わえ付けた。




御殿場駅。ここからバスで御殿場口へ向かいます。

富士急バス窓口往復切符を買うと割引になります。


御殿場ルートは1番乗り場です。

富士急行のバスで御殿場口到着。乗り合わせたメンバーが人生の縮図のよう・・

御殿場口です。この鳥居から始まります。

天気予報の雷はまぬがれましたが、晴天とは言いづらい天候。前方富士山頂です。

海岸の砂地のような火山灰の砂れきの道を行きます。



 それにしても登山ルートと下山ルートが別だというのはこんなに楽なものだっただろうか。登り始めてすぐの頃、何組かの下山者と出会った。姿は見えるが、道と道のあいだに一定の距離があるので、世界が交錯することがない。これにはずいぶんと救われた。これから登るものと、既に登って降りてくるものとは目的も意欲も体力もまるで異なる。降りるときは挨拶することさえ気遣われる。(最近、私は登るものが先に声をかけるのがルールではないかと思っている。つまり登るものにその余裕がないときは挨拶はしないほうがいいだろうと・・)同じ道に居合わせること自体が本来おかしいのではないか。
 御殿場ルートの登山道は、なるべく火山灰を避けた場所に、勾配の緩やかなジグザグの道が作られている。逆に下山道は、標高差約1500mを一気に下る直線の道だ。人気の「大砂走り」ができるように、火山灰を恣意的に厚く、深く、均している。
 下るときに大砂走りから登山道を見た。広く雄大な一色線の道の左右に、蟻の列のような細いジグザグの道が見えた。真夏の炎天下の中、懸命に登っていく登山者たち。思わず同情を禁じえなかったが、自分が登っている最中はこの道が愛しく、嬉しく感じられた。
 富士山の地を踏んでいるだけで、嬉しい。過酷なルートと聞いていた。それでもできるだけ登山者が歩き安いように工夫してくれているところがいい。下山者と交錯しないだけで、気分的に楽だった。

 私はなるべく滑らないように、誰かの足跡の上を歩いていた。深く砂れきに沈み込んだ足型の踵のあたりに自分の土踏まずを合わせるように踏み込むと、沈まず、滑らず、いい具合に歩けるようだ。ところが、しばらく試していると、それも思ったより効果がないことに気が付いた。火山灰は意外と固まらないのだ。また時間が経った足跡だと特に崩れやすく、人気の少ない御殿場ルートにはそんな時間の経った足跡のほうが多かった。
 
 もう少し高度が上がると、私は疲れ切り、夜の薄暗い中で足を埋め、滑らせながら、ここがもう少し普通の地面だったらどんなにいいだろう、と何度も恨めしく思うのだった。けれどこの頃は、それでも、ここを今歩いているだけで満足だった。念願の富士。天気も上々。そもそも予報は「雨、時々雷雨」だった。山を登れる天候ではなかったはずだ。



 
富士山は吉田ルートを除いて登山道と下山道が分かれている。

もうじき日が暮れる。西の空に残照らしきもの。

7合目まで4時間は、後で聞いた話、「健脚ならば可能」だそうだ。
歩き始めて約1時間半。次郎坊に到着。

標高2000を超えた。吉田、富士宮ルートだと5合目に達していない。

火山灰地をひたすら行く。

ついに日が暮れた。時折、自衛隊東富士演習場の爆音が響き渡る。

御殿場ルートの標、懐中電灯を点けてやっと見つける。

同じく懐中電灯でジグザグ道のロープを見つける。
ロープは所々しかない。あると切れたところで道が45度逆に向かう標し。

夜が深くなってきた。




 懐中電灯の明かりが不意に切れた。電池を変えても、クリプトン球を取り替えても、ニ度と明かりは灯されなかった。

 一瞬にして光が失われる。闇夜に包まれる。足がすくんで、動けなくなる。その想像があまりにも恐ろしかったので、出発前夜、私は替えの電池(単2)と電球と、それからもうひとつ、万が一それでもだめだった場合に備えて、別の懐中電灯とを用意した。それで事なきを得たのだが、今度はこの最後の明かりが切れたらどうしようかと考え込んだ。
 一応替えの電池(こちらは単4)も持ってはいるが、もう手元を照らすこともかなわない。ちょうど山小屋辺りで切れてくれればいいが、そううまくもいかないだろう。
 それで、光を惜しみながら歩いていたのだ。闇の中手探りで電池を変える自信がなかった。
 そもそもこの懐中電灯を買ってから電池を変えたことなどなかった。単4を4本もの、プラスとマイナスの配列がわからない。なぜ家を出る前に変えなかったのだろう。ああ、もう「自衛隊」は現れないかなぁ。

 よく言えば用心深い、悪く言えば(悪い方向へ)考えすぎる、性格が災いした。
 懐中電灯を点けるのは、方角を知るときだけにした。ジグザグに45度、道が方角を変えるその時だけに、辺りを照らした。道の方向がわかったら、その終い(次に45度曲がるところ)に目安をつけて、闇の中をまっすぐ歩いていく。

 明かりが切れるつい5分前、私は「自衛隊」に会ったばかりだった。
 そのせいだろうか。決して光の不安だけではなく、誰も歩いていない夜の道が、前より心細く感じられた。
 それまで、私はこの御殿場登山ルートで一人の登山者にも遭わなかったものだから、つい一人で歩いているような錯覚に陥っていた。いや、一人は一人なのだが、もう初めから終いまで、ここは私一人しか存在しない道のように感じ始めていた。
 だから気楽なものだった。日が沈んでも空はまだまだ明るかった。やっと光を必要に感じたのは日没2時間は過ぎていた。懐中電灯を点けて、この道がとても「わかりにくい」ということに、初めて気がついたのだ。
 出発前に笑いながら読んだ「富士登山記」では、登山道(あれは下山道?)は両端にロープが続いていることになっている。が、実際の登山道では、ジグザグ道が斜め45度に切り変わるその前後にしか現れない。
 道を知るためには、目印はロープはなく、道の中心の砂れきのへこみと、道の端の盛り上がり、それを目視するだけだった。明るければ難なきことも、暗くなると、いかにも難しく感じられた。50m~100m歩いて、45度のターンを繰り返すだけなので、パターンを覚えれば簡単だろう。しかし、懐中電灯を点け始めた時分は焦ったものだ。
 四方八方に明かりを向け、地面を照らして、道を探している。やっとのことで僅かな土の盛り上がりを見つけると、ほっとして、また歩き始める。
 ああ、登山道と下山道と道が分かれていて気を使わなくて楽だとか、一人で気楽だとか、馬鹿なことを思ってしまったものだなぁ。時々光る懐中電灯は、道の遥か向こうから。別の道の、あれは下山道からの光だ。私の行く道に、私以外の光が照らされることはなかった。

 この、富士登山における光というのは、人生の光、言い換えると「希望」にとてもよく似いている。
 人は闇夜の中を、各々の「光」を持って歩いている。自身のそれが途切れ、誰かの光さえも見失ったとき、もう歩き続けることは難しい。道の上に立ち止まるか、それでも暗闇を当てずっぽうに歩いていくか、最悪は道を踏み外して、もう死ぬしか術がない。

 今私の道は私のちゃちな懐中電灯の小さな光しか照らされていなかった。思えば富士登山を決めたのは2日前だ。ヘッドライトを用意する時間がなかった。
 このあとしばらくすると、登山専用の、照射距離が100mは優にありそうな明かりで道を照らす者たちと何人も行き交うのだが、それはあとの話。
 この時は、日没後初めて、気楽な道中を難しく、焦りをもって、感じ始めていた時だった。時折響く大砲の発射音も、その思いに拍車をかけた。あの騒々しい爆音はいったいなんだろう。よく近隣住民は大人しくているものだ・・

 それでも私はずいぶん長く感じられる間、安心していられたのだった。
 まだ空に残照が微かに残る頃、背後から足跡が響いた。ザッザッザッ・・・ 隊列のように規則正しく砂を打つ靴の音。誰かが猛スピードで登ってきた。
 振り向くと、「自衛隊」だった。彼は私に一瞥もくれずに、そのまま追い越していった。
 登山道でやっと人に出会った。そう思ったら、一瞬で終わった。
 しかも、なぜ後ろから来るのだろう。登山口近くの山小屋で休んでいたのだろうか。
 前日に私は御殿場ルートのすべての山小屋に電話をかけた。どこも満員御礼で断られ、空いていたのは、登山口近くのひとつだけだった。電話口に出た女性が言ったものだ。「皆さん最終のバスで来られて、しばらく休まれてから登り始めます。ご来光に合わせて・・」
 出発を遅らせるのでは意味がないと思ってやめてしまったが、もしかして、そのパターンだろうか。
 それでも、早すぎるようだ。登山口から山頂までは約7時間と言われている。私でさえ、ご来光は諦めていた。山頂には深夜1時過ぎぐらいに着いてしまうだろうと想像していた。あんなに猛スピードの「自衛隊」が今のペースで登ったら、日付が変わる前に着いてしまう。今まで山小屋で休んでいたとしても中途半端だ。
 事情はわかないが、人がいた、ということが心強かった。御殿場口であのサングラスの女性職員から説明を受けたとき、とっくにみんな出発して、一人置いて行かれたと思っていたが、そうではなかったようだ。
 おまけに、「自衛隊」は私を通り越してから50mほど歩くと突然立ち止まった。不思議に思う間もなく、ロープの外に出て行った。恐らく、気温が下がってきたので、防寒着を着るためか、ヘッドライトの準備をするためか(まだ明かりをつけていなかった)、それとも休憩だろうか、それで、立ち止まったのだろう。とにかく、助かった。
 何にせよ、私は猶予の時間を与えられたような気持ちになった。そして、実際、ずいぶん長く感じられる間、「自衛隊」は戻ってこなかった。30分もあっただろうか? 彼がまた規則正しい足音を鳴らして、追い越していくそのときまで、私はずっと後ろに人がいると思って安心していられたのだった。


 しかし、もう彼は現れない。
 振り向くと、もう誰かの灯りが見えることもなかった。「自衛隊」が消えて5分後、私の道は夜の闇に包まれた。
 そして予備の小さな電灯で、明かりを惜しみながら、標高2000mを超えた道中を行くことになるのだった。

 

闇夜の道。空だけが不気味に明るい。

スタートから4時間かかって新6合目に到着した。
ほかのルートなら今が5合目のスタート地点あたりだというのに・・

気温が落ちて寒くなってきた。また生あくびが続いて眠くてたまらない。

ダウンして、夜空を見上げる。星空だったが、コンデジで撮るとこのとおり真っ黒。

6合目。なんとスタートから5時間経っている。
予定では深夜に山頂のはずだったが大幅に遅れているようだ。

山頂が遠く感じる。この分だとご来光を見れるかもしれないと思い始めた。

標高300m。いったいつになったら山頂に着くんだろうと思い始めたのも
3000mを越えたあたりから。不思議とこの先から歩いても歩いても
さっぱり進まないように感じられた。

やっとあと少しで山小屋に到着!気力を奮い起こす。

ところが7合目の山小屋は空いていない。ショックでまたダウン。

やっと次の山小屋に到着。わらじ館と砂走館が続けてある。

山小屋からの景色。雲の隙間から町が綺麗に見渡せた。

山小屋は満員御礼。みんなベンチでひっそりと休ましてもらう。


 
 
 標高2590m、新6合目を越えた辺りから体に異変が起きた。生あくびが続いて、とにかく眠く感じられた。
 始めは「いつものこと」だと気に止めなかった。私は職場でも生あくびが出て眠くなるし、自宅でも年のせいだろうか、夜の10時を超えると眠くなることがしょっちゅうあった。
 違っていたのは、場所と状況だ。
 いつものようにうとうとと寝てしまうわけには行かない。まだ標高1000m以上を登らなくてはならなかった。おまけに気温は、山頂が4度だったので、おそらく10度以下、7度から8度もあればいいほうだっただろう。
 私は自宅で、毛布にくるまって眠る自分を思った。猫が近くにいた。「いつものこと」どころか、その幸福ないつものときと、今のここにいる自分との間には、ずいぶんな隔たりがあると気がついた。いや、隔たりではない。異次元のようだ。
 瞬間移動できるならば、一足飛びに帰りたかった。しかし、現実の工程を考えるとまだ歩いたほうがましだと思われた。今、下山しても、どうせ翌朝の9時半までバスはない。登山前の計画では、バスの発車時刻に合わせて、お鉢巡りでもするか、わざとゆっくり下山して、夜が明けるまで体を冷やさないように工夫するつもりでいたほどだった。
 
 時折、ヘッドライトが通り過ぎる。この頃には、登山者があとからポツリポツリと現れて、私を追い越していたが、それでも、人は少なかった。彼らが、もしも道の端に寝ている私に気が付いたとして、どうすることができるだろうか。声をかけるくらいだろう。彼らとて、山頂までまだ1000m以上を登らなくてはいけないのだった。いや、それ以前にこの暗がりでは人が一人倒れていても気が付かないのではないか。

 7合4勺のわらじ館という山小屋の主人は元警察官だそうだ。「今日は満員だけれど、もしも何かあったらそこに行って。端っこにそっと居させてもらってね」と登山口のあのサングラスの女性が言っていた。何かある、というのは天気予報であったように、雨、時々雷雨のことを言っていたのだろう。そこまで行けば安心だと言うことは、そこに行く前には何もないと言うことで、もしも私が、山小屋にたどり着く前にこの道の途中で歩けなくなったら、突然眠くなって、倒れて寝てしまったら、それはどういうことを意味するだろうか。

 生まれて初めて、死を身近に感じた。
 
 まさか思い出作りの富士登山で死を実感するとは思いもしなかった。私はただ、富士山が消滅するという物語をあちらこちらで目にして、笑い飛ばすことができなかっただけだった。
 もし、いつ何が起こってもいいように、もう一度、大好きな富士山に登りたかった。この誇り高い国の象徴である山の、その地を歩いておきたかった。

 歩き続けない限り、終わってしまう。

 ところが今はぶざまに生き続けるために、一心に、富士の地の一歩を踏み出しているのだった。
 初めての山小屋に着くまでがことさら長く感じられた。私は体が冷えきって、下腹がキリキリと痛くなった。7合目の「日の出館まであと50m」の標識を励みに歩いていたが、その日の出館が閉鎖しているのを目のあたりにしたとき、ついに更に250m先のわらじ館まで歩くことができなくなった。

 眠ろう。

 今思うと、たかだか5度前後の気温で凍死するわけもないが、そのときは歩くのをやめたら終わりだと感じていた。眠ることは、歩くことをやめるということで、死と同じ意味だ。
 それでも、もう歩くことができなくなったのだった。
 不思議なことに、―6合目から8合目まで私は何度も道の端でうとうとと眠った、その度に、必ず、何のきっかけもなしに、必ず、しばらく経つと目を開いた。
 そろそろ歩かなきゃ・・ と何事もなかったように、普通に歩き始めるのだった。深く眠りに落ちても、必ず、静かに起き上がった。
 
 「大丈夫ですか?」

 誰かの声で目を覚ます。「空気、要りますか?」
 私には意味がわからない。空気がなぜ必要なんだろう。それは20年前の富士登山で何度も見かけた光景だった。道の途中で、山小屋で、苦しそうな表情をして、空気を吸っている人々・・ 私とは明らかに違う人々・・

 「高山病だって。大変だね」

 彼らは口々に言った。それで、私は自分が高山病だということに初めて気が付いた。

 起き上がると、3mほど先に、人が座っていることもあった。辺りは人気のない暗闇だ。誰もいないと思っていたので、逆にぎょっとさせられた。あれはしばらく前に声をかけていった一人かもしれなかった。ちゃんと起きるか、まるで確かめるかのように座っていた。
 人々は、私に気付かないどころか、時々、「声をかけるだけ」以上の、心遣いを示してくれた。「大丈夫です」と、そのことを少なからず腹立たしく感じながら答えて、そのくせ、ますます気遣わせるように、50m歩いては、歩くのをやめて眠り、100m歩いては、また眠った。この分では、ご来光に「間に合って」しまいそうだった。
 
 「大丈夫ですか。降り始めると楽になることもありますよ・・」 
 
 「大丈夫です」

 いっそのこと起き上がらなければいいのに。
 人々に心配をかけながら、これで何度めだろうか、また起きたときに、私は偶然にも、手紙を目にするのだった。
 正確にはメールだ。目は覚ましたけれど立ち上がれず、座り込んで、まだかろうじて電波の届くスマートフォンで、自宅のパソコンに届いたメールを眺めていた。知り合いからのメールを見たら元気が出るだろうと思ったのだった。ところが、何の操作の間違いか、突然、1ヶ月前に届いたメールが開かれて、私の目に飛び込んできた。
 それは、祖父が死んだという知らせだった。

 「・・そのたびに、何度も、何度も、頑張っていた・・・(祖父)も」

 「眠るように、安らかな最期を迎えました」

 祖父はもう頑張れなかった。もう疲れてしまったのだ。何度も何度も、気力を振り絞って、頑張り続けた祖父は、最期は安らかに、眠りについた。
 喉から熱いものがこみ上げた。今、こうしていることの意味が、霧が晴れるように、すべて見えてくるように思われた。

 祖父が死んだ時、私は嘘つきだと思った。絶対生きて戻ると約束したのに、その約束を破って、彼は死んでしまった。その時の哀しみと悔しさを思って、負けるものか、決して嘘をつくものかと、おのれを奮い立たせなくてはいけないはずなのに、私の胸にこみ上げたのは、そうではない、祖父と自分との境遇を分け隔てるほんの少しの運の違い、人生に対する深い感謝の思いだった。
 
 起き上がれることがありがたかった。決してそのまま眠りにつくことなく、また目を覚まし、歩けることがありがたかった。それはとてつもなく、偶然であり、幸運であって、決して当たり前とは言い切れない、奇跡であるように思われた。

 彼が私より頑張らなかったわけではない。たまたま祖父の命はあの日終わってしまったのだ。

 そしてあの時感じた裏切られたような想いがやっと、悼みと、慈しみに、変わっていく。私は歩き始める。後ろから、そして前にも、いつしか道には人がいて、たとえ自分の明かりをなくしても、道標は見えるようになっていた。




山小屋から仮眠組がスタートした。山道を明かりが行者のように連なっていく。

空が白んで来た。そろそろ夜が明ける。

ツアーの団体と一緒に眩い光の中を歩く。

雲海と連なる登山者たちの明かり。

4時23分、あと30分余りで日が昇る。間に合うだろうか。

中央に見えるのが山頂。間に合うか!

最後の猛ダッシュ。でも人が渋滞してなかなか進まない。

山頂の鳥居がついに見えた!

光射す方へ。歩いていく人々。

やった!ご来光に間に合った。

しばし、日の出を待つ・・



 「気配」を感じて、振り向くと、ちょうど下山途中の「自衛隊」が通り過ぎたところだった。7合目で登山道と下山道が合流したのだ。彼は登山者たちの脇を足早に進んで、すぐにジグザグの道の向こうにかき消された。この偶然には驚かされた。一瞬のことだ。なぜ見つけてしまったのだろう。道は登山ツアーのいくつものグループの登山者と、その中をすり抜ける下山者たちとで、混み合っていた。

 8合目を超えて、それまで山小屋で仮眠していたツアーの登山者たちが合流した。彼らは10人ほどのグループになって、次々とスタートする。連なるヘッドライトと、光に反射する帽子のシールとで、騒がしいくらいに登山道を照らしていた。
 あまりに明るいので、懐中電灯を消して彼らの横を歩いていたら、奮然と怒られた。
 「懐中電灯持ってないの?」
 先頭のリーダーが言う。
 「持ってます」
 「足元を照らさないと危ないよ」
 なんというケチくささだろうと辟易した。私の心配など露ほどもしていない。あれは、人の光で歩くな、ズルをするな、と非難しているのだった。
 あまりに頭にきたから、ツアーの列の横から外れて、後ろに回った。(ツアーの登山者と一般の登山者は二列になって歩いていたのだった)
 部外者、もしくは、金を払っていないものは、零れ落ちる恩恵さえも与えようとせず、排斥して、あくまでも自分たちだけで享受しようとする。あれだけ煌々と道を照らす光を持ちながら、なんというケチな魂だろう。もしも私が、多勢のうちの一人で、多くを持ち得るものだったら、必ず、持たざるものに光を分け与えることだろう。彼らに希望を与えるだろう。

 もし突然光が切れても、いくらでも助け合えるくせに・・・

 団体の彼らならば。
 そう思いながら、助け合えるものもいない自分に負い目を感じている。彼らは私よりよほど年が上のようにも見えた。私よりもよほど普段運動をしていない(山に慣れていない)ようにも見えた。ところが、同じ帽子をかぶり、同じ明かりを持って、規則正しく連なって、難なく山を登っていく。

 彼らは今、この御殿場ルートを光で照らしていた。見上げると一番上のグループは夜に吸い込まれ、頂に溶け込んでいくようだった。ご来光を見るために、組織された彼らだ。そのための集団だった。
 一番後ろに付いて登山道を登っていく。不思議と夜の空は明るかった。これは登山中ずっとだ、照らさなければ見えぬ道よりも、よほど空は明るかった。
 時々、集団のしんがりから外れて、また眠った。しばらくすると静かに目を覚まして、また彼らの後ろに付いた。それでも、これも不思議なことに、集団は後から後から現れて、いつの間にか、私の後ろに煌々と輝ける行者の列をまた作るのだった。
 この分だと、本当に山頂でご来光が見れそうだった。まさか、日の出の時間に山頂に着くとは思いもしなかった。ぎりぎりで富士登山を決めた自由気ままな私は、山小屋を予約することも叶わなかった無計画な私は、もっと早くに着いて、さっき通り過ぎた「自衛隊」のように、この団体の彼らを縫うように、とっくに下山しているはずなのだった。
 誰が私にご来光を見せてくれようというのだろうか。山頂の感動を与えてくれようというのだろうか。神の粋な計らいのようにさえ思えてくる。ところが、そんなふうに考えて、満足しきっていた私に、青天の霹靂がもたらされた。

 その時前を歩いていたグループの一人が落ちこぼれた。無線の声が聞こえてくる。・・さんが言うには、みなさんと同じペースで歩き続けることができそうもない。このままではみなさんに迷惑がかかってしまう。みなさんがご来光に間に合わなくなる。どうか、自分を置いて先に行ってください、と・・
 登山道は渋滞し始めていた。いつの間にか一定の距離を歩く中で、立ち止まる時間の方が長くなっていた。
 何組かのグループのまとめ役なのだろう、後方のグループと無線でのやりとりを続けたあと、男は苦渋の決断を下すように言った。

 「わかった。その地点がわかるようにだけしておいてね」

 どうやら具合の悪くなった女性を置いて行くことになったようだ。やりとりを聞きながら、その女性が「みなさん」から遅れるけれど、山頂へ向かうのだと思い込んでいた私は、ここでぎょっとさせられた。
 誰かが付き添うのか、一人なのかは知らない。けれど、置いていかれた地点を報告したら、もうそこから動く・・ つまり山頂へ向うことは叶わなそうだ。

 一人であることを負い目に感じていた。団体の彼らならば、いくらでも助け合えるだろう、と思っていた。けれど、粗末な光しか持たず、同じように高山病になった私が今こうして続けられていることを、彼女は断念しなければならないのかもしれなかった。「みなさん」にこれ以上迷惑をかけないように、ご来光の瞬間も、「今いる地点」で休んでいるのかもしれなかった。
 せめて、リーダーが後方のグループを預かって、彼女に伴走してあげる一人を作れないものだろうか。
 そのための集団行動ではないのだろうか。

 いたたまれない思いがした。集団には敵わない、という自分の論理のおかしみも思い知った。負い目など打っちゃってしまおう。そして、彼女の分も、山頂に向かうのだ。

 「ご来光に間に合わないかもしれない」
 今やその言葉は現実味を帯びていた。散々寝ていた(倒れていた)せいだ。道が渋滞し始めているせいでもあった。私は猛ダッシュを始めた。50m、100m歩いて休んでいた体が嘘のように動き始めた。ここまで来て、山頂の朝陽を見ずに帰れるものか。
 これ以降、私は二度と、休憩することはなかった。
 


ご来光を待ちわびる。

もう空はこんなに明るい。

もうすぐです。

真ん中よりやや左、太陽が微かに見えました。

あそこです。

ここまで来るとよくわかる。歓声が上がります。













 標高3300mを過ぎてから、山頂までの標高差500m弱の僅かな距離がとてつもなく長く感じられた。これが歩き慣れた丹沢の山々だったら、標高差500mなんてあっという間に終わってしまう。高地というのは、こうも違うものか。3500mを超えたところに頂があるというのはやはり特別なのだ。霊峰、富士の山の高みを、改めて思い知らされた。
 おまけに御殿場ルートは、8合目を過ぎると次に目指すは、もう、山頂なのだった。9合目も9合五勺もない。息苦しく、吐き気を覚えながら、まだか、まだか、と何度も標識を見やり、その度にほとんど進んでいないことを告げられる。終わってみれば笑い話だが、登っているときは心底遠い道のりだと思った。
 また足を埋める火山灰の砂れきから、打って変わって、今度は今にも崩れ、落石でもしそうな、荒涼とした岩場の中を進んでいく。何度も転びそうになる。
 私にとって登山とは自然と親しむものである。植物を愛でるところである。ところが高度2400m(御殿場ルート以外の大体5合目)より上、この森林限界を超えた火山荒原の地点に作られた登山道というのはつくづく山(自然)の厳しさを実感させられる。本来、私のような素人が、しかも多勢で、足を踏み入れていいところなのかどうかさえ疑う。この地は「天地の境」と呼ばれているそうだ。

 登らせていただいているんだなぁ。

 入山できていることを、ありがたく思う。天地の境はますます高度を上げて、今や雲の上の、ますます天に程近いところまでやって来ていた。
 あまりにもそれ用のツアーが多いせいか、富士山のご来光というと俗な印象が否めないが、しかし、この長い道のりの最後に雲海から立ち昇る来光を見たならば、やはりそれは特別な思いを抱くものだと思う。霊的な体験を思いがけず味わうものではないかと思う。
 三度目の富士登山で、思えば、一度目は山頂で雨が降った、二度目は8合目から9合目の辺りで日の出を見た。今回の富士登山の計画でご来光を目的にしなかったのは、ちゃんと「見れていないから」、思い入れがなかったのかもしれなかった。

 振り向くと、御殿場ルートの後ろの空は刻々と白んでいた。ちょうど登山道の横に稜線があって、一番深く白んでいる「部分」が隠されている。山頂に着く前にもしも日が昇ったら、三度目の「それ」はまた見ることが叶わないだろうと悟った。

 「霊的な体験」とか「俗な印象」とか過去の体験からくる「ご来光への思い入れ」とか、しかし、そのときはどうでもいいのだった。これらのことは、すべてが終わり、冷静になって思い出しているから言えることであって、そのときはがむしゃらだった。とにかく、日が昇る前に頂にたどり着いて、「それ」が見たかった。
 長く連なっている列の登山者の全員が、そう願っているんだろうと思った。渋滞して、なかなか進まない一歩も、それで耐えられた。私は前後の団体のメンバーとは違う。追い越して先に登ってしまっても、誰も文句は言わなかっただろう。けれど、彼らの明かりを目にしたように、彼らの一人の分も登ったように、ここまで来たら、たとえ集団の一員じゃなくても、私たちは運命共同体だった。
 この全員で頂の来光を見たい。最高の思い出を作りたい。富士山はもう数年で消滅するかもしれない。私は地震や、事故や、そして戦争のことを思っているのだ。なにか禍々しいことが突然起こって、現実化することは充分あり得ると思っていた。
 もちろん、自分はそれを望んでいない、だが、歴史の流れがそちらの方向へ向かっていることは痛いほど感じていた。戦争はしたくなかった。富士山はいつまでもここに在って欲しかった。けれども、その気持ちと、過去の戦争を否定する気持ちとはまるで違う。現在、反戦を叫ぶ者たちの言葉を聞いていると、過去の私たちの命が無駄死にであったように聞こえてくるのだった。過去の私たちの闘いが支配者に乗せられた愚かな行為であったかのように聞こえてくるのだった。もう二度と、俺たちはそんな馬鹿な真似はしないと。そうじゃない。今私たちがこうして富士山に登っているのは、今ここに霊峰が立っていて、運命共同体の私たちがその頂に向かうことができるのは、すべて過去の、私たちのために命を投げ捨てて、私たちの命と、この地のために、戦ったものたちすべての、おかげなのだと。
 
 現代の若者はもう二度とそんな愚かな真似はしないだろう。そして、富士は消えるだろう。だから私はこうして登っている。この山との思い出を作っている。

 戦争は反対だ。
 けれど、無駄死にも、戦いにも、すべてに意味はあった。


 「時には、自分の命を守ることよりも、大切なことがある」

 「命に代えても、守らなければならないものがある」

 
 あの戦いのとき、彼らの心にきっと富士は在った。ありがとう。今ここで、日の出を見ることのその意味を、今ここに在ることのすべてを、感謝したい。平和を与えてくれて、ありがとう。

 歓声が上がった。天地の境の、その頂にたどり着いた。霊峰の鳥居をくぐり抜けたのだ。御殿場ルートは太陽に近い。そして山梨側へ。私たちは、光射す方へと、歩き始めた。
 そうだ、もう、すぐだった。もうすぐ夜が明ける。
 あの東の空から、雲の海から、ついに眩い太陽が現れることだろう。


 すべてが、溶け去る、瞬間。

 来光が昇った。もう理屈はなしに、何もなしに、ただ、美しかった。




すっかり明るくなって今度は下山、もしくはお鉢巡りに向かう人々。

富士山の火口。いつまでも静かでありますように。

眼下に雲海が見渡せる。朝日に染まり美しい。

「天地の境」の天の道。今度は下りです。

宝永火口が見えている。ここも静かでありますように。

下山道より。右手に駿河湾が見える。

大砂走り。ここを1歩で3m、一走り!

雲の切れ間から「双子山」が見えました。



 大砂走りを走りながら、確かに楽しいが長すぎると感じていた。
 一歩で3mのペースを1時間以上続けていると、足が萎えそうになる。なんとか気力を振り絞って、一歩3mでひたすら走る。
 御殿場ルートの最大のうりが、この大砂走りだった。7合目から5合目の太郎坊まで、厚い火山灰の下山道を一気に駆け下りて行く。あまりにスピードが出るので、止まれなくて、転びそうになっている若者を何人か見た。コツがあるようで、体の重心をほんの少し後ろに預けると良いようだ。規則正しく、行進するように走る。一歩を大きく、イメージは北朝鮮の軍隊の行進のように。あんなふうに両足を高くかかげるようにして、またそうしながらスキーのように足の裏を滑らせるようにして、ザックザックと規則正しく走っていると、かなりのスピードが出ても転ぶことはない。
 悔しがって私の横を何度か若者が抜かそうと試みたが、けっきょく抜かすことができなかった。コツをつかむと女性でも早く走れる。12時間かかった登りを一気に2時間半で下ってしまった。

 こんなに急いだのは、帰りのバスのせいだ。9時半の始発バスにどうしても乗りたかった。
 お鉢巡りはそれで見送った。後ろ髪を引かれる思いがしたが、いや、もう一度必ず来なければいけない理由ができたといい方向へ考えた。今日は山頂に来れただけでもうけものだ。欲を出してはいけないと戒めた。
 ちなみにお鉢巡りとは、山頂の火口の廻りを歩くことで、時計回りに3km、時間にして1時間半、久須志神社にご来光を見るのに一番良いと言われている大日岳、そして富士山の最高到達点であり日本最高地点である彼の剣ヶ峰(標高3776m)等を一巡する。
 私は富士山の本当の山頂にだからまだたどり着いていないということになる。(過去2回の富士登山も確か剣が峰は行っていなかった)
 まだまだ死ねない。富士山にも頑張ってもらわないといけない。
  
 思えば、今回の富士登山が御殿場ルートというのも象徴的な話だった。この富士裾野には明治29年から日本陸軍の演習場があるのだった。敗戦後はアメリカ軍に奪われたが、昭和43年、アメリカ軍から(キャンプ富士を除いてすべて)日本政府に返還されている。現在、中隊規模の訓練が行われるのは全国でここだけだという。
 真夜中に、大砲の発射音を何度も聞いた。振り向けば、花火と見間違うほどの火炎が立ち昇っていた。そのときは恐ろしいようにも感じたが、私が「眠ってしまった」のは、演習が終わってしまったあとだ。応援されていたようにも思う。そうだ、思えば、あの爆音にずいぶん助けられた。

 大砂走りを走りに走って、御殿場ルートの新5合目バス停に着くと、行列しているはずのバス停は人っ子一人いなかった。一瞬目を疑った。人気の下山コースだ。他のルートから登った人達も、こちらに降りてきているかと予想していたのだった。
 バス停はガランとして、バス停標識が道の上に置き忘れられたように立っている。その隣の広めのスペースに古びた木製のベンチが四角形に、囲むように、並べてあった。
 一番奥の一つに、「自衛隊」が座っていた。背筋を伸ばし、椅子の上にビーチサンダルの足を乗せていた。その左には見知らぬ男が距離を開けて一人ずつ。私はベンチに近づく前に、バス停の一番先頭にグレゴリーのナバリノをどかりと置いた。もしもここに、「ハッキョウ」(発狂)がいたら、当然一番乗りで置いていたのだろうけれど、バスが発車する最後まで、けっきょく彼を見かることはなかった。「オヤジ」も「カップル」もいないようだった。お鉢巡りでもしていたのか、それともタクシーでとっくに帰ってしまったのか、どちらにせよ、無事であることを祈るばかりだ。

 無事に下山して、バスにもどうやら乗れそうだとわかると、私は急に安心してお腹が空いた。ナバリノから飲み物と食料を取り出して(登山中気持ちが悪くて口にできなかった分だ)、それを持って手前のベンチの一つに座り、食べ始めた。
 「自衛隊」はベンチの上に乗せていた足を組み直して、不思議な生き物を見るかのようにこちらを見やった。笑っているようにも思えたが、おそらく気のせいだろう。
 あとになって、彼は本当に自衛隊員だったのではないかと、はたと思ってしまったら、おかしくてたまらなかった。駅からではなく、バス停の前から走ってきたのだ。近くに住んでいるのだろう。もしかしたら、あの東富士の陸軍のひとりで、たまたま落ちこぼれて、もしくは問題を起こして、総合火力演習のメンツから外されてしまった、それで暇を持て余して富士登山にやってきた、とか。
 なぜこの日、御殿場口から富士山頂を目指したのか。ご来光をどこで見たのか、わからぬままにそんなことを想像して、それでもたまたまこの今日の日に居合わせてくれたことに感謝を覚えた。居てくれただけで、ありがたかった。ずいぶん、心強い思いがしたものだった。
 富士演習場の爆音のようなものだ。何も助けてくれなくていい。激動の時にありながら。それでも、命など捧げてくれなくても、今はただ在ってくれるだけで、充分助けられている。
 この平和が続くといい。

 「あの、御殿場駅に向かいます? 3人で相乗りして、タクシーなんて、例えばどうです?」

 見知らぬ2人が声をかけてきた。

 「バスの乗車券をもう買ってあるんですよね」

 答えると、ああそうですか、と大人しく引き下がった。退場。肌寒いほどに、そうだここはまだ富士の上だった― 風が吹いて、私は上着を一枚着込んで、ベンチに横になった。お腹も、心も満たされて、いい気分だった。もう少しこうしていたい。今度こそ、さあ、うちへ帰ろう。あの日常へ。もうすぐ猫に会えるだろう。

 ありがとう、富士山。楽しかったね。

 私はバスが来るまで、眠りについた。







※富士登山記を動画にしました。よかったらこちらもどうぞ(^O^)

 



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