山を行くということ ~三頭山登山記~

 
 
 より良く山を登ることは、よりよい人生を歩むことと似ている。
 山は人生の縮図だ、と良く思うが、人は山を登ることで良い人生を送るためのトレーニング(もしくはシュミレーション)をしているのではないだろうか。
 そう言えば、若い頃山のことなど全く知らないのに、突然登山がしたくなった。ジーンズにTシャツで中級の山を登っていたら、降りてきた年配のハイカーに「そんな恰好じゃ登れないよ」と叱責されたことがある。
 その時私は、いろんなことに挫折していて、どうしても山頂まで行きたくなったのだ。何度かこのブログにも書いたが、ただ手軽に達成感を得たいだけかと思っていた。軽薄なものだったと。
 だけど、今思うと、あれは何かわからぬままに答えを求めていたのではないだろうか。
 どうすれば、より良く生きられるのか。二度とこんな失敗を繰り返さなくて済むのか。その答えが山を登ることにこそあるような思いがしたのではないだろうか。
 最近タレントのCMでもそのようなものを見たような記憶がある・・

 
  




   



 話が前後するが、先週、三連休の月曜日に三頭山に登って来た。
 東京の奥多摩からスタートして、山頂(西峰)は山梨 ―正確に言うと県境らしく、東京都と山梨県の両方の標識が立っている― 標高1,531mの山である。
 と言っても、登山道入り口がすでに標高990m、登り標高差が540mしかないので、気軽にハイキング程度の心持で登れる山であった。
 翌日が仕事なので、あまり無理な山は登りたくなかった。ガイドブックに「三頭山とブナの路」とあり、ブナが立ち並ぶ登山コースがあるらしい、それも気に行った。
 それと、ある実験をしたかった。
 数日前、疲れない山登りを特集していたテレビ番組を見たので、その登り方、下り方を試してみようと思ったのであった。
 筋肉には瞬発力はあるが疲れやすい速筋と、持久力はあるが力の弱い遅筋があると言う。傾斜を登ろうとすると、どうしても力のある速筋を使ってしまうが、そこをなるべく抑えて、遅筋を使うようにして登ると「ばてない」のだそうだ。
 私はひょいひょいと駆け上がるように登ってしまうことが良くある。体調が悪い時、もしくは標高差がある山ではばてやすい。息が上がってしまわないように、なるべく涼しい顔をして登りたいものだと考えた。しかし、どう考えても、遅筋とやらを使い慣れていない私は、その名の通り、ペースが遅くなりそうである。慣れれば、遅筋だけで、すたすた登れるようになるとは言っていたが、それは慣れた者の話であって、無理めな山をのんびり登って、周りに迷惑をかけないように、または自分でもペースの遅さに焦りを感じないように、比較的楽そうな三頭山を選んだのであった。
 疲れない山登りには遅筋を使う登りだけでなく、山の下り方にもポイントがあった。
 筋肉を痛めないようにするのだ。小股で歩き、なるべく足の裏を使って(感覚がわかるように)降りるのである。東北のマタギの方々の歩き方 ―いくら山を歩いても疲れることはないという― がビデオで映されていた。あれもぜひ試してみたいものだ。


   




  
武蔵五日市からバスに乗り1時間と20分、終点都民の森で降りる。始発のバスが遅いので、すでに10時近い、山登りをする人たちはみな軽装である。私も十分な休憩を撮ってからおもむろに登り始めた。
 ガイドブックのタイムテーブルでは1時間半で山頂である。遅筋を使うようにしてのんびりと登っていく。途中三頭大滝があり、コースも渓谷沿いの登山道が続く。沢の流れが心地よい。ずいぶん日は照っていたが、茂る木々とこの沢のせせらぐ音で涼しいものだった。これなら楽に登れそうだ。
 そうだ、初心者なのに無理をせずに、このような気軽に登れる山を登れば良い話ではないか。そのうち、遅筋を使って、高い山もサクサク登れるようになるだろう。
 より良い山との付き合い方を覚えれば、山を降りたあとの現実社会でも無理なく楽に生きられるような思いがする。私はこの考えから、より良く山を登るとはどんなことを言うのだろうと考えている。

 まずは筋肉、身体を傷めずに登ること、降りること。それから、山登りのルールを知ること、出会った人たちへの挨拶から、道の譲り方、追い抜き方から道の行き方、または道の知り方と気遣いと。
 それから最小限の持ち物を知ること。この小さなリュックに入れるものこそは、私が現実社会で必要なものなのではないか。喉を潤す水に、腹を満たす食べ物に、汗をぬぐうタオルに、意外なのは雨具、突然の天候の変化から身を守る傘は、私が思うほど後回しにしていいものではなかった。
 それから最低限、一緒に行くものたちに馬鹿にされたり、とんでもないと思われないほどの身支度は必要だ。(見た目の話である)機能性のある登山服を選んで、山にもハイカーにも馴染むこと。
 そうやって、山登りに必要なひとつひとつを現実の人生に置き換えてみると、意外にもぴったりはまって面白かった。
 着るものは綿はだめだ。肌触りは良いが、濡れると体が冷えてしまう。身につけるものは渇きの良いものが良い。山(人生)を共にする恋人のようなものか。ウェットな相手だけは、どんなに肌触りが良くてもご法度だ。
 靴は滑りにくいソウルの厚いものよりも底が薄いものが良い。登山ブランドからありとあらゆる立派な靴が販売されているが、これだけはそのブランド力や機能性の宣伝に騙されてはいけないように思う。マタギのビデオを思い出せば、地下足袋がなにせ一番疲れないのだ。最低限の身支度を想って、まさか地下足袋で山は登れないが、標高1500m前後の山登りならスニーカーで十分だと思う。試に小股で滑るように下ってみたが、何と身体も傷めず疲れないこと!私はこれを現実社会の足だと思った。日本で乗る車ならば、身(の丈)に合った小さなもので十分だ。中国ではないが、全員自転車にすればいいのに、と思ったほどである。
 








 ブナの路はその名を疑うほどブナがなかった。行けども行けども、イタヤカエデとカツラとシオジばかりだった。私は山を登りながら悪態をついた。どこがブナの路なのだ、と。
 標高1300mを越えたあたりから急に不安になる。登山コースを登り始めた頃はあれだけたくさいた同行者も今は一人もいない。辺りは木々と私だけである。もしかして、路を間違えたのではないか。三頭山は登山コースが多い。もしかして、さっきのあの休憩所で、左に曲がったが、真直ぐ進む路でもあったのではないか、あそこまで一緒だった人たちがそろそろ追いつきそうなものだが、来る気配もないではないか。などと、根拠のない別の路を想像してはあれこれ心配する。ブナの路にこんなにブナがないわけはないのだ。ブナの路でもなんでもない丹沢の山よりブナがないではないか。
 そのうち、木々の間からひょっこりと標識が顔を出しているのを発見、ちゃんと「ブナの路」と書いていあるのを見て、やっと安心する。
 三頭山のブナ林は、東京で唯一まとまって残されている貴重なものだそうだ。ブナの林床には普通ササ類が密生しているが、ここは少ない。学術的にも注目されていると言う。
 ブナが見え始めた頃から山頂まではあっという間だった。一番高い、西峰、それから中央峰、東峰、と歩いたが、西峰からは富士も見渡せた。あいにく雲をかぶっていたが、それでも良い眺めである。

  

 


 
  

遅筋を使うようにして、のんびり登ったせいか、疲れは全くなかった。まだまだ登れそうである。ただし、もしも、これがもっと標高差のある山になると、まだ自信はない。トレーニングが必要だ。
 下りのチャレンジも快調だった。いつも登りより、下りがきつく、膝が痛くなるのだが、今回は全く痛まない。現実でも、こうやって下るときは身体を傷めずに降りなくてはいけない。
 私は以前山を人生にたとえた時、山頂が終点だと思っていた。山頂こそが死であり、人生の幸福、もしくは目標の頂点だ。ところがより良い下り方を考えていたら、その考えがふと見当違いか、まったくそぐわないもののような思いがしてきた。
 私は今まで降り方を考えていなかったのだろう。人生の山は一つではなく、連続する尾根のようなものなのだ。登ったり降りたり、それこそ例えと同じように人生山あり谷あり。頂点の死をどこで迎えようと、それはその登山者の勝手である。
 だから降りるときは、まず次にまた登ることを考えて降りなければならなかった。今は降りるが、また必ず昇り始める。そのためには、絶対に降りることで体を痛めてはならない。間違っても転がり落ちてはいけないのだ。
 私はずいぶんと降りるときに身体を痛めたものである。よくぞまた山を登れているものだ。より良く山と付き合うには、より良く生きるには、疲れない登り方と同じくらいに身体を傷めない下り方が、それを身につけることが必要不可欠だった。私は自身を傷つけないように慎重に、小股で降りていく。

 
 



   

 この、ふと思いついたより良い山との付き合い方を身につけたら、より良く人生を生きられるのではないか、という仮定は、都民の森のバス停に戻る頃には決定的なものとなっている。考えれば考えるほど、その通りだと思えてくる。
 だから年配者が多いのだ。生に執着する彼らならば、まだまだいい人生の送り方を学びたいと思っても当然ではないか。若者は逆にどうでもいい。彼らは上手く生きられなくても、若さだけでどうにでもなるから、山になど見向きもしない。(最近は若者にも人気があるらしいが・・)
 私はこれを他の遊びにも当てはめようと考えた。たとえば、より良い○○ゲームの仕方を身につけたら、より良い人生を歩めるようになる。とか、何か他の物(水泳でも球技でも勉強でもなんでもいい)を極めたら、それは現実の人生に置き換えられるトレーニングとなりえるのかと。
 ルールを知ること、要領を覚えること、技を身につける、経験を得ること、そんなことは他の事柄でも同じであるように思ったが、やはりあの人生に酷似した山の登りと下り、道を行くことそのものと、木々の匂い、せせらぎの音、予測不能の天候に体調に、身体で、五感で体験するすべて。それらは、どんな他のゲームにも当てはまらないように思われるのだった。人生は、登山を通してしか学べない。
 

 また山に来よう。躓かず、ばてずに、傷つけずに上手く生きられるようになるまで、また山に登ろう。
 私はそう決意しながら、帰りのバスを待つ。次のバスまで約40分余り、この待ち時間もそれはそれでまた楽しい。本を取り出して、読み始めた。
 そしてふと、もしも・・と考える。

 もしも人生こそが山だったら。「より良い人生を学ぶためのに山を登る」として、それが登山の目的だとして、その山そのものが、もしも私の人生だったら。

 人は「より良い人生を学ぶために生きる」のだ。決して山頂が目的でもなく、楽しく山を登れればそれで良いとするわけでもなくて、山のルールを知り、まわり(道連れ)を気遣い、身体を傷めず、そうして景色を楽しみながら、より良く生きることを学ぶことが人生の目的なのではないだろうか。
 登ることそのものを目的にしてはいけない。山頂に意味はない。少しでも高い山をより良く登れるようになったものこそが勝者だ。
 私はバスを待ちながら、次はもう少し高い山にチャレンジできる私になっていると良いと思っている。

 
 




 
 

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