ノアの箱舟を探して










  このままではもうだめだ。
  今まで良しとしていたやり方はもう通用しない。現状を打破できない。
  どうしたらいいのだろう。今さえ良ければいいと思って、ただ生きてきたわけではない。それなりに頑張ってきた。だけど、努力も尽きた。
  自身の限界地点を越えなければ、決して新たな道は開けないだろう。

  ところで、私は遭難ものや漂流もののノンフィクションが大好きだ。人々が災害や事故に巻き込まれて、日常から放り出される。飢えや寒さ、更なる危機が襲いかかり、彼らの精神は極限状態に追い込まれる。そんな中でどうやって生き抜いていくのか。耐え忍び、協力し合い、解決策を模索して、救済へと向かうのか。
  若い時から冒頭のような問いを発することが多かった私は、図書館へ通っては良くこれらのノンフィクションを読んでは参考にさせて頂いた。決して自分がその通りにできるわけではなかったが、彼らの逞しさ、何があてっても生き抜こうとするその生命力にずいぶんと勇気づけられたものだ。
  もちろんノンフィクションだけではなく、小説でも映画でも良かった。危機が訪れる。タイムリミットもある。そんな中で人々が救われる道を選択していく。地球環境の変化や人類社会の行き詰まりからか、今ではこういったテーマの物語がとても多い。雪山に飛行機が不時着しようと、地球に岩石が落ちて来ようと、ハリケーンや洪水に見舞われようと、宇宙人や亡霊が襲って来ようと、災害と外敵の内容は変わっても、ひとつだけ共通したセオリーがある。それはノンフィクションも、フィクションも一緒だ。
  どの物語でも、救済までの過程に必ず描かれる出来事、それは極限状態に陥った人間の狂気である。

  これは救済の道までに通過しなければならない必然なのか。自然災害よりも外敵よりも恐ろしいものとして、繰り返し描かれてきた。生き残った者の誰か一人が狂気に陥り、仲間に襲いかかる。またそれは一人ではなく、ときには感染し、集団となってヒーロー(たち)を追い詰めることもある。生き残るためには、今置かれている異常な事態の原因(本質)と戦う以前に、まずはこの、極限状態でおかしくなった仲間を倒さなければならないのだ。

  どうして人間は必ずこのテーマを繰り返し描くのか。私は不思議でたまらなかった。自然災害よりも外敵よりも、身近な私たち人間の心のほうが恐ろしいと訴えたかったのか。それともやはりただの物語のセオリーで、通過地点にすぎないのか。どちらにしても、救われるために主人公たちはかつて味方であったもの、かつて仲間であったものを倒すという葛藤と苦悩に見舞われる。それを越えなければ、決して本当の敵とは戦うことができず、救われる道はないということだ。これは人類の永遠のテーマ、もしくはあれだけ多くの物語が同じ道を描くのだ、人生における真実なのだろう。


  週末のプチ撮影旅行は今週も近場の森となった。私は答えを見つけるまで、この森に腰を据えてやろうと思っているようだ。
 カメラと三脚を持って軽快に自転車を飛ばす。耳にはイヤホン、鳩山由紀夫首相の施政方針演説を繰り返し聴いている。何が悲しくて、好きでもない男の声を何度も聴かなくてはならないのだろう。(私は好きな男の声も最近では聴けてはいないのだ)それでもこの中に、この国のこれからのあり方を、方向性を示す答えがある。行き詰った現状を打破するためには、私を取り巻く環境の変化と未来の方向性を知ることが必要不可欠だ。それは私の道と通じているのだ。

  私は森林公園の入口に自転車を置いて木々の中へと入り込んでいく。葉を落とした裸の落葉樹が立ち並ぶ。寂しい景色だ。見るべきものも、美しい景観もそこにはない。多くのものにとって、私の行動は謎のようだ。

「何を撮ってるの」

  先週に引き続き、訊かれるのだった。今度は同じ道を行くものだった。先週の私は隣の広い道を行く男に訊かれて、ぞんざいながらもコナラの木を指し示したが、今日は顔も見ず、返事もしないのだ。距離感が近いと、なおさら腹が立つものだろうか。訊かなくても、この道を歩く者ならわかるだろうとでも思っているのか。無視されても去ろうとはせず、私に近づいて来て、カメラの液晶モニターを覗き込もうとする男を振り払うように、足早に森を歩いていく。

  私は災害や事故に巻き込まれているわけではない。しかし、イヤホンからは繰り返し警告を唱える言葉が続いている。地球も、人類も、今は危機に瀕しているそうだ。飢餓や感染症、環境破壊、生態系の激変…

「私たちの叡智を総動員し、地球というシステムと調和した『人間圏』はいかにあるべきか、具体策を講じていくことが必要です。少しでも地球の『残り時間』の減少を緩やかにするよう、社会を挙げて取り組むこと。それが、今を生きる私たちの未来への責任です」

  現代では「頭のおかしくなった仲間」を見分けることが難しい。物語のようにわかりやすく出て来てくれれば良いものを、わかりやすくても倒すには葛藤も苦悩も付きまとうと言うのに、誰がまともでだれが狂気だか区別しずらければなおさらだ。私は男の質問に答えず、足早に去ったことで自分を責めていた。そのくせ、男が腹いせにと、暗い森で襲いかかってこないかと心配までしているのだ。

  「いのちを守りたい」、この国の総理大臣が施政方針演説で24回も繰り返す「いのち」という言葉。そうだ、現代はいのちを政治家に守ってもらわなければ生きていけない時代なのだ。地球政府の大統領でもない、一国の総理大臣が繰り返し訴える「いのち」の貴さ、危うさ、今私たちの命が脅かされているのだ。仕方ないじゃないか… 私は自分を守らなくてはとうそぶいて、森を進んでいく。










  私にとっては冬の森は見ごたえのあるものばかりだった。枯れた木も乾いた土も草も空気までもが新鮮だった。先日男たちが電動のこぎりで切っていた木の枝は、山になって積み重ねられられ、またはまとめられて三角形に立ち並び、まるで収穫後の稲のようだ。枯れ木にまとわりつく蔦の緑の鮮やかさ、裸の枝を広げる落葉樹と常緑樹の緑の融合した冬の空の美しさ、もっと腕があれば、見る者にとって何の価値のないこれらも輝かせてあげることができるだろうに…
 私など、誰が見ても良しとする美景や花を撮らなければそれこそ何の価値もないものではないか。だれからも評価されず、笑われて、見捨てられていくものではないか。自分の趣味趣向を呪いながら、誰もが良しとする言葉の羅列を今では子守歌のように聴いているのだ。
 ガンジーを持ちだされたはかなわないなぁ…
 私はこれでは野次を飛ばした野党が無礼だと批判されるのもうなずけると苦笑いをしながら、政策という政治家の腕で対抗せようとはせず、理念で信を問うならば、私など今頃は大きな写真展で最優秀賞を取れるのではないか、実効性の伴わない口約束だけの理念でもいいのだから、「木々への愛を前面に押し出して撮ったものです!」とさえ言えば拍手喝采を浴びて入選し、今頃カメラマンとして楽に生活できているに違いないと思ったりしている。
  しかし、この耳触りの良さは称賛に値するものだった。ガンジーが言うように理念なき政治は困りものだろうが、理念だけの政治は多様の解釈を生み、いかなるものをも満足させる。また、崇高な理念を根幹に掲げておけば、枝葉の批判は低俗と思われかねない、批判しどころのない、誰からも悪く思われることのない、ここにはそんな逃げ道がある。

 私は森で迷いかけていた。楽しそうに道を行く家族連れ、年老いた夫婦、ここは彼らの散歩道であり、私がいる場所ではないのではないか。ここで与えられるのは、不審そうな眼と、好奇心の質問と、発表しても評価されない大量の無駄な写真と… 私はもっと誰からも好かれる写真を撮るべきではないだろうか。この声を神のお告げと聴くべきだ…











  鳩山首相が言いたいのは、訪れる地球と人類の危機、この時代に新たな航海の舵を取れるのは自分たちだということだった。今までのやり方はもう通用しない。生活も、経済も、社会共同体も新たな形を模索する時だと。それら文化の価値観としての概念を成功型のモデルとして世界に向けて発信して行こう、そのことによって生き残ろうと言うことだった。
 先日の国会で、旧体制の顔となる小池百合子衆議院議員がこう訊いた。
「乗組員は誰ですか、という話ですよ」

  彼女は首相に問いただしたのだ。外国人の地方参政権付与法案に関する質問で、この国はこの国の民固有のものではないかという意味で。
 私はその時、その質問を評価した。まさにそれを聞くべきだと思った。しかし、あとになって、この演説を何度も繰り返し聴いた今になって、あの時の私の高揚が無意味なものだったと知ったのだ。鳩山首相の考える乗組員は私たちではない。それは、彼にとってまさに愚かな質問と映ったに違いないと。

  ノアの箱舟だ。それが地球上のすべての種を雄雌ひと組ずつ乗せて旅立ったように、彼はこの船にあらゆる人々を乗せて、航海に出ようとしているのだ。
 彼が守りたいいのちは決して日本人だけではなく、崇高な理念の下、世界規模になっている。もしも耳触りのいい言葉に踊らされて私が喜んでノアの箱舟に乗れば、地球や人類の危機を乗り越える前に、船内での戦いに明け暮れなくてはならないだろう。彼が示す未来は友愛、乗組員の融合だ。しかし、それは人類の歴史上成功したためしはなく、すべての物語に繰り返し描かれる人間の本質だ。そして、各国の箱舟には決して日本人が乗ることはないだろう。荒波の航海で待ち受けるのは、他民族だけ、もしくは同質の価値観だけで武装された乗組員がいる船ばかりだ。舵を取るものが、このいのちの危ない時代に、狂気にあるものを判別することを拒み、愛に導かれて、航海を始めた。その新たな船のモデルが成功して、他の国々も船をも圧巻するものになるまえに、狂気に陥った乗組員同士のいざこざで、救済への道は閉ざされるのではないか。その必ず訪れる必然の過程を乗り越える体力が私たちにあるだろうか。もしも鳩山首相が理念とともに消えたら、その時荒波に乗り出している私たちの箱舟はどうなるだろうか。もしも、狂気に陥ったある船員が他国の船の共謀してクーデターを起こしたら、あっけなく舵は奪われるわけだな…
  私は繰り返し聞こえる言葉から、成功した場合のリターンと失敗した場合のリスクを考え、自分に置き換えて模索していた。

  何度考えても、どうしても納得できない、この崇高な理念には、彼が責任を持って判断する基準が欠けていることだった。理念だけを与えて、あとは勝手にあるがままに、なすがままに、仲間同士で食うか食われるかの生存競争をしてくれと言わんばかりではないか。

  それは今までの社会とどう違うのか。私たちの叡智を総動員してと言う割に、混乱を乗り越え、融合して友愛となるための方法論が抜け落ちている。リスクが増えただけではないのか。現代は人類の叡智で成り立った姿である。それを放棄して新たな道を模索するなら、まずは政府が叡智を指し示す必要がある。乗組員すべての叡智に期待するのは安易すぎる。人間の本質を楽観視し過ぎている。彼が描く未来は、逆に今ある叡智を遠ざけかねないものではないか。
 いのちをあぶなくしているのは、お前ではないか。


  私はカラー写真を撮っていた。しかし、ここで設定をモノクロに切り替えた。先週に引き続きの何の変哲もない森の写真だ。せめて色をつけて、人好きの良い写真にしたいと願っていた。もうどうでもいいと思った。私はまず、地球規模ではない、小さくてもいいから私のノアの箱舟を作って、その中で他国の船や領海に捉われずに、影響力を受けることなく航海できる術を見つけることが先決だと気付いたのだった。

 新しい価値観を輸出しなくても、労働力や資源を輸入しなくても、たとえ貧しくても自給自足して生きていける、そんな術を取り戻さなくてはいけなかった。もう若さという資源は使い果たした。生半可な技ならだれでも持つ時代だ。徹底的に極めなくてはだめだ。

  私は多くの人々から見たらブタの手のような写真を熱心に撮り続けた。まだまだ道は遠かった。しかし、やっと答えを見つけた、そんな気持だった。
  来週はこの森を抜け出すのだ。私の船を待っている人たちがきっといる。