愛の歌を聴きながら ~江の島シーキャンドルライトアップ~2011~
12月に街を彩るイルミネーションはクリスマスを祝う恋人同士の為にあるものだ。そうじゃない、あれは見ているだけで華やかな気持ちになるものだと慰めてみたところで、恋人も、ともに祝うものもなければ、言葉に力が入らぬ、気分が沈むと言うならば、あなたはイルミネーションの素晴らしさを半分しか理解していない。
イルミネーションは私たちに心地よさを提供する第三次産業の側面と、原材料となり加工されうる第一、第二次産業の側面があるのだ。
かつて若き日の私は、クリスマスに一人で過ごすことを恐怖に感じていた。活気付く街も、けばけばしいイルミネーションも、私の心の平静を奪い、不安や恐怖を逆なでする魔的なものと感じていた。
「わぁ、綺麗ねぇ」と口に出しては言うのである。女友達や彼氏が隣りにいれば、その声はますます芝居がかったものになった。
しかし、心の中ではカウントダウンをしている。
12月24日まで、あと〇日・・・・
その時に、彼らが私の隣にいる確証はなかった。イルミネーションの輝きだけが心に迫ってくるのだった。
あれから何十年の月日がたったか、イルミネーションを撮りに江の島へと向かう。現在の私にとって、イルミネーションは愛でるものではなくて、写し撮る対象、貴重な原料であった。
まるで魔的に輝けば輝くほど、原料としての価値が増す。紅葉巡りの刻印の、最後に残された一つが江の島で、そして偶然にも私が毎回写真旅行に出かける土曜の夜にイルミネーションが初点灯されると知った時、その「湘南の宝石」、シーキャンドルライトアップ2011を、私はどれだけ神に感謝したことだろう。
迷い、焦り、汗をかいて、それでも出逢えぬ紅葉から始まった刻印の旅。その空白の最後のワンピースを埋めるのが、江の島のサムエル・コッキング苑のイルミネーションだ。
夕刻、江の島へと向かう。弁天橋から富士を望んで。 |
点灯直後、夕暮れが残る空を撮りたかったが、 あっという間に冬空は闇に包まれた。 |
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英国人貿易商サムエル・コッキング温室跡 |
20,000個のスワロフスキーを使用した光のトンネル |
ここ数年、イルミネーションというと丸の内を撮りに出かけていた。銀座・有楽町の代名詞のように思っていた。
なので、江の島のシーキャンドルなどと、本当は高をくくっていたのである。私は自分や、自分に近しい町のことを見下したり尊重しない節があるようだ。
ところが、例えば昨年、丸の内に出かけて感じた頭の中のイメージと現実の光景が一致しない違和感、私の裡では世界の中心のような眩い輝きであるのに、実際の街並みの思わぬみすぼらしさ、貧相な灯り、それを見て驚くあの時の違和感と、まるで逆の印象を抱いたのであった。
違和感は同じであるが、そうだ逆なのだ。私の裡の貧相な江の島の光と、この現実の輝かしさとの違いはどうだろう。
銀座や有楽町と街としての価値を考慮しないのであるならば、ただイルミネーションの原料としてだけ江の島を評価するならば、なんと負けていないことよ。私は自分のことのように嬉しく、喜ばしく感じたものだ。
願わくば、もう少しうまく撮ってあげたいところであったが、何を思ったか、イルミネーション撮影の時に一番活用している70-200mmの望遠レンズを置いてきた。
私は愛用のグレゴリーナバリノから、タムロン90mmマクロを取り出して、愕然としている。何を思って、これを詰めたのか思い出せない。恐らく紅葉の旅でマクロレンズを使用しなかったことを後悔していたので、せめて最後に活用したいと願ったのだろう、それにしても間抜けであった。
あの銀河鉄道のような星降るイルミネーションを幻想的な玉暈を交えて撮りたかったが、標準レンズとマクロレンズでは技術的に難しいことも、経験値が少ないこともあり、叶わなかった。
が、丸の内や街撮りの際とホワイトバランスを変え、温かみを抑えて、青白い色調を強調することで、何とかイメージを再現することに努めた。
巨大なクリスマスツリーとなった江の島シーキャンドル(展望灯台) |
本物のキャンドルもいたるところに。 点灯後1時間余りで灯が消えていく。早めの撮影がお勧めです。 |
思えば、私が写真を撮り始めて4年と半年の月日が経つ。ずぶのど素人の時にやって来たのがこの江の島だった。
あの頃の私は見るもの見るもの撮りたくて、念願のカメラや一眼レフを手にしたことが嬉しくて、至らぬ、見る価値もいない大量の写真を、「フォト蔵」(写真投稿サイト)に披露したものだった。それでも、一つずつ見てはいいところを見つけ、褒めてくれて、励ましのコメントをくれた数々の方々に、今思うと頭が下がる思いである。自分が彼らの立場だったらと思うとぞっとする。どれくらい長い間、この相手の成長を待たなければならいのかと案じてしまうことだろう。
私はこの最後の刻印の一夜を、一つの区切りと考えていた。
初心者卒業試験か、それとも、写真愛好家の中間テストと言ったところか。何かわからぬ力で、試されている想いがしたのだ。合格点を是が非でも取りたかった。
煌びやかな苑内には恋人同士、楽しそうな家族連れ。彼らは邪魔にならぬよう道の脇にうずく待って写真を撮る私を見つけては、「うわ」とびっくりして、「〇〇ちゃんだめよ」と子供を叱りつける。無邪気な子供は私の髪の毛に触れようと近づいてくるのだった。驚き、子供を制した後、恋人同士と家族連れは、微笑み、笑い合って、私の横をすり抜けて行った。
その笑いの残響がほんの一瞬、若き日の私の焦燥感と恐怖心とを思い出させたが、それだけであった。
今の私には、同じ方向を見つめるたくさんの者たちがいるのだ。
イルミネーションの素晴らしさを別の側面から知る者たちが傍にいる。恐らく。今夜の皆既月食も、その者達と共に見るのだろうと予感しながら。
小さな島は潮風が冷たく吹き荒れ、私はかじかんだ手と冷えた頬を押さえて、ベンチに座り込んだ。エネルギーが尽きていた。ロボットがかたりと動きを止めるように、そのまま動けず、ただ心臓だけを震わせて、まるで赤子が泣くように甘えた声で、寒さを訴えている。寒いよ・・・
携帯が鳴る。見落とした原料はないか。最後にもう一度苑内を見まわす。
合格点には程遠い。それでも及第点をもらえたと暗示を受けて、私はヘッドホンを付けて走り出すのだ。
温かい我が家に向かって。ラジオは愛の歌を繰り返し流し続けている。
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