神は消えた。しかし、希望は残されている。 ~大倉尾根から塔ノ岳、鍋割山登山記~
神は消えた。
私の物語を楽しみに待つものは、これで誰もいなくなった。
たかが個人の妄想だ。初めからどう放とうと垂れ流そうと、私の勝手ではある。
が、そうでもないのだ。
それはそう単純なことではないのだった。ひとりの妄想が、物語が、取り返しのつかない事態にもなりえると。それを教えてくれたのは、先週、尖閣諸島の漁船衝突事件のビデオを流出させたあの「犯人」だった。
彼の容疑は「守秘義務違反」に当たるのだそうだ。
最高裁の判例を見ると争点は、ひとつは「それが(国民に対して)公にされていないこと」、それから「秘密として保護すべきものであること」、この二点だそうだ。
罪に問うならば、二点に反することを証明する必要がある。
ところがひとつ目は、ビデオが流出したのは、国会議員30人にビデオをさらした後で、国民に対してその内容は広く知れ渡っていた。そして二点目の「秘密として保護すべき」はこの場合、国の「機密」となりえたかといえば、それが怪しいのだった。
なぜ、あのビデオを国家機密として守らなければならなかったのか。
秘密が国を守るためだというならば、その国はどこの国か。そして、その判断をどの国の誰がしたのか。
まさにそれを、現在日本中で論争している最中なのだった。
私がぞっとしたのは、ビデオ流出犯の意図を思い知ったからだ。
「犯人」は尖閣ビデオを流出したことで、ふがない内閣に一矢を報いた、民主党の幹部が漏らした表現によれば「倒閣運動だろう」ことを成し遂げたわけではない。彼の狙いは、この論争を巻き起こすことこそが本当の目的だったのではないか。ああ、そういうことか。
闇に葬られようとしていたことが、白日の下にさらされた。今や、2ちゃんねるや個人のブロガーだけではなくて、元議員の都知事までもが公共の電波に乗せてこう吐き出すに至った。
「売国内閣」
私が感心したのは、誰しも考えていることでも、決して言葉には出せないこともある、暗黙の了解というものだ、それを公のものにしたこと。ひとりの考えを、一人の人間の自問自答を、世界共通の自問自答と押し広めたこと。
共有できない思いなどないのだ。どんなに、時の政府が、この世の神が禁じようと、たったひとりの頭の中にあるものを、全世界共通のものにすることは可能なのだ。
あの「犯人」はたったひとりで、そのことを証明した。いやもしかしたらバックに組織が付いていたとか、そんな俗なオチちがあるかもしれないとは想像してはみても、それさえも矮小に感じさせるほど、確かに価値のあることをやらかした。
「倒閣運動だろう」
私は自問自答する。「犯人」のように考える。
「今回の件で我が国の国益は損なわれたのだろうか」
「これを機密とするのであれば、時の政府が自身に都合の悪いことはすべて機密にしてしまえば、何をやっても許されるのではないだろうか」
たったひとりから、「それ」ができるか。このあまりにもおかしな今の日本を変えられるのか。
テレビで尖閣ビデオの論争を聞くたびに、私はぞっと身震いする。
追い詰められた内閣に、なんと無力ではありえない個人の力、妄想であることよ。
読売テレビは「犯人のメモ」を全文公開すればよいのだ。今こそ。
今週末の週末の撮影旅行は大倉尾根だ。
通称「バカ尾根」と呼ばれている延々と急登り(階段)が続く尾根、金冷シから塔の岳や鍋割山に続く尾根を一度登ってみたいと思っていた。
表丹沢から塔ノ岳を巡った時に下りで使ったことはあるのだ。しかし、それだけで私は、絶対ここだけは登りたくないと思うに至った。何とまぁ、殺伐とした魅力のない道であることよ。
とにかく階段が多い、自然が美しくない、これは冬のせいもあるだろうが、乾燥して干からびた土地に痩せた木々が点々と立っている。「自然の山道」という名のドラマのセット、もしくは作り物のテーマパークかと思うほどだ。特に登り初めは、落ちるは赤松の葉ばかりなり、で草さえもない。私を抜かしていくのは、大柄な大倉尾根猛者といった風情の山男たち。若い男、中年の男、年配の男、挨拶するでもなし、黙って通り過ぎていく。殺風景な上にそっけない。
こんなところを好んで登るのはきっと男ばかりなのだろう。だって「大倉尾根」だもん。と私は毒づきながら黙々と歩く。塔ノ岳まで7キロの行程だった。
しばらく行くと、今回の旅で初めての「山ガール」に出会った。この後、私は何十人もの彼女らを見かけることになるのだが、初めはぎょっとしたものだ。どうも今まで見ていた山男猛者の一陣とは本質的に違う、異質に見えてくる。
上はパタゴニアのジャケットかフリースか、モンベルのダウンか、ノースフェイスの色鮮やかなカットソー、下はサポートタイツに厚手のソックス、で、スカート姿なのだ。サイドジッパーのストレッチ素材、必ずノースフェイスのロゴ入り。最初の彼女はたまたま若い「お母さん」だったようで、子供と旦那さんとおじいちゃんたちと一緒の登山だった。鹿の群れが見えた見えたとはしゃぐ姿は、格好の異質に驚いた後はほほえましいものに変わっていったが、その後にあとからあとから出くわす少女たち、またはおしゃれな少年たち、その集団を目の当たりにすると私はさすがに微笑ましいとは言っていられなくなったものだ。
今の若いものは、こんなに山に登りたがるのか。おしゃれと称して、山を求めるのか。
みな道に迷っているように思えて仕方がない。道を知ることを切実に求めている。下界は危機的状況だ。
しかし、このブームでパタゴニアとノースフェイスは業績をかなり伸ばしたことだろう。私は帰りの道すがら、彼らの服を見るたびにそんな余計なことが気になった。あやかりたいものだなどと考えていた。
で、大倉尾根の続きである。山ガールはさすがにこの尾根にはいなかったようだ。(私が集団に出会うのはたぶん表尾根から来たのだろう、塔ノ岳と、それから鍋割山での話である)第一陣の猛者が追い抜いて行くと、しばらくはテクテクひとりの気楽な道中となる。
そのうち年配者の(というより老年)女性のグループにも出会い始める。彼女たちは紅葉狩りの散歩のようだった。「あら見て、綺麗に染まって」「あらあら」「まぁまぁ」と楓をしきりに見上げている。
老年の山ガールたちを追い抜いて、黙々と行く。団子状態で現れた野郎どもも追い抜いて行く。 別に追い抜かしたいわけではないが、黙々とマイペースを保つと自然にそうなるのだ。はっと気が付くと、私を颯爽と追い抜いた一陣の猛者たちの姿まで見えてきた。汗だくになってジャケットを脱いでいたり、ちょっと休憩といった様子。彼らをウサギとカメのカメになった気分で誇らしげに追い抜いて行く。(ただし内心の話で、様子は至った神妙に黙々と)
なぜか私はまったく休憩を取りたいと思わなかった。水分補給も望まなかった。速筋を使って登って、足を痛めないことだけを念頭に、ただ歩いていく。
これも足を痛めないための右左にぐるりまわるような登り方のマイペースの階段登り途中で、ふと後ろからの追跡者の足跡が響いた。今日は調子がよいようで、それまで、マイペースと言えば追い抜くことが多かったので、抜かれることを心外に感じた。筋肉隆々のあの一陣の猛者たちも、持久力では及ばなかった今日の私である。よほどの者だろうと好奇心に駆られてはその瞬間を待ちわびて、追い抜いて行くものを見つめると、なんと70歳から80歳には見える老人であった。
しらが頭のおじいちゃんじゃん・・・
彼は目の覚めるようなスカイブルーのTシャツに裾をジッパーで取り外しのできる、美しいラインのベージュのパンツをはいていた。色鮮やかな山ボーイのいでたちよりも洗練されていて、山にとてもしっくりとなじんでいる。
老人は健脚なのか、このあともずっと階段になるとペースを上げるのだ。尾根の比較的平たんな道のりでは思わず抜かしてしまいそうになるというのに、急な段差であればあるほど本領を発揮する。持久力だけではなくて、確かな筋力や体力に裏打ちされた実力者であった。私は一発で見込んでしまい、心の中で「師匠」と名付けた。彼において行かれないように、急いで階段を登って、後ろにぴたりとつける。
私のマイペースはそこで崩壊したのだった。もともとそれを求めた大倉尾根登山ではあったが、「先を行くもの」が老人とは意外だった。山を行くことが人生とリンクするとしたならば、やはり若さも体力も大したハンディにはならない。成功するコツを覚えることは、いや成功者になることは老人でも女でも与えられているということだ。何を持って成功者と言うのかって?
老人はやや猫背気味に疲れたように黙々と歩いていく。私は50メートルほど後ろから彼のバックパックの大きさや靴やその姿勢をチェックしている。何の感情もないように、殺伐とした大倉尾根を行く彼が、時折、右を見る。左を見る。ちらりと、まるで私が見ることを促すように、首を振る。
私は不思議に思って彼の見るほうを見やっては、美しい尾根の稜線や、雲間に浮かび上がる富士を発見して驚かされた。私が驚いた道中の出来事で、彼が唯一促さなかったのはひとつだけ、雄鹿の横を通った時だけである。
まるで、それは何の特別なことでもないようだった。老人は鹿と同じ山の一部となっていた。
下界のバカな私ははしゃいで、鹿を写真に撮りまくり、彼から軽蔑の一瞥をいただいただけであった。
そのうち私の師匠に目をつけた男が現れる。鈴を騒がしく鳴らす彼は、私よりもぴったりと、老人の後ろにつけたのだった。老人と鈴鳴らし男は団子状態で私の前を行く。休憩所を通り過ぎ、三人で黙々と道を行く。そのうち集団が現れて、私の行く手をふさいでしまった。老人と鈴男は細い階段の山道の中、うまく彼らを避けて脇から少しずつ抜いていくが、私は阻まれて、迷い込んだ。抜けるにはペースをかなり上げなければ長い行列を追い越せない。老人たちのように、並走してうまくやり過ごすにはなめられてしまったようだった。集団のうちの老婆たちがペースを上げて、列の間合いを縮めている。(よほどこの長い行列のものよりも私のペースは遅いことだろう)しかし、今日の私は師匠において行かれるわけにはいかなかった。必死で、忘若無人に集団を追い越そうとする。そのうち憐れんだ一人が「ひとり来たわよ~みんな避けてあげて~」と大声を発する。
「いやいや、いいんですよ。そんな早くないんで。いや、あらすみません」
と、私はわざとらしく遠慮しながらやっとのことで作ってくれた道を行き、彼らを追い抜いた。
老人と鈴男とはずいぶん距離が開いてしまった。この当たりから殺伐とした大倉尾根はその本領を発揮して、階段の鬼となる。階段で私を抜いただけあって、老人は急な段差はお手のものである。ますますペースが上がってくるのを、必死になって追いかける。ああ、この尾根はまるでつまらないと思っていたが、老人のおかげでずいぶん美しく見えたものだ。
まだまだ素晴らしさを彼は私に教えてくれるはずなのだった。たとえそれが私のペースとは違っても。私の足を痛めることになっても。その代償を与えてくれる「者」なのだった。
鈴男の鈴が私を救っていた。そのころになると人も増えて、階段は登り人で詰まっていたが、距離が離れても、人で見失いそうになっても、鈴が老人の位置を教えてくれている。
私は鈴を頼りに必死で登っている。すでに遅筋と持久力だけでは間合いを保てず、私はずいぶん無理をしていた。それがたたって、息が上がり、足はもう前に出すのもしんどい。木々が消えて、岩ばかりのガレ場になった時に、斜面で隠れていた老人の姿が登り切った瞬間に見えてはっとした。彼は鈴男を先にやって、座っていたのだった。私と目があった。初めてのことだった。
老人は疲れて、休憩を取った風に見えた。しかし、私は一瞬でこう解釈した。
休憩を与えてくれたのだと。私は老人をやり過ごして、100メートルほど行ってから、倒れるように座り込んだ。水をごくごくと飲んでのどを潤した。気温が上がっている。木々の日陰はない。
「あっつい・・」
それが私を追い越す時に老人が吐いた独り言だ。
まるで、「暑いからちょっと疲れたよ」と休憩したことを言い訳するようにも受け取れた。私は性分なのか、上から目線で、だよね、私も疲れたから待っててあげたよ、お互い頑張りましょう的な気持ちでいたと思う。だけど今思えば、あれは「暑いから気をつけろ」と言う警告だったのかもしれない。
なぜ老人のようにあの時上着(長袖)を脱がなかったのか、後になって後悔した。
私はリュックを背負って、また老人の後にぴたりとつけた。はずだったのだが、ここから、しばらくして、花立を過ぎたあたりか、ひとり道中から転落してしまうのであった。
理由は富士だった。ぼんやりした空に晴れ間が広がって、丹沢の山塊に陽が当たり始めた。紅葉に染まった山々に浮かび上がる富士がそれは美しく見えて、カメラを持った人々が、富士を切り取っていた。私は今日はまったく写真を撮っていない。前回の鍋割山で、写真を撮りながら、楽しみながら山を登ることを成し遂げた、あの成功感覚が忘れられなかった。
この場所からでないと、この晴れ間でないと、富士のこの景色は撮れない。
「師匠」についていくことと、今の美しい富士を撮ることを天秤にかけた私は、迷わず老人を見切った。
リュックを広げて、広角のレンズを取り出すと、カメラにつけて、富士と紅葉の景色を撮り始めた。山頂まで行くことが目的ではない。私は写真が撮りたかったのだと自分を納得させていた。
この休憩があだとなり、もともと疲れ切った私は、もう頑張って登る気力を失った。富士と紅葉の写真は思ったよりも悪い出来栄えで、(そのあと山頂でよほどいい景色と巡り合えた)楽しむことも、登ること自体も中途半端になった。金冷シで塔ノ岳に行こうか、このまま大丸、小丸へと進み鍋割山を目指そうか悩んで、あと少しだからついでに行くか、程度の軽い気持ちで塔ノ岳を目指す。軽さに乗じて、山頂間際で、また休憩を取って、一服をした。
ずいぶんのんびりと時間をかけて、やっとのことで塔ノ岳にたどり着けば、ああ富士が見える。私は夢中になって富士を撮った。前回表尾根から来たときは曇っていて、富士が見えなかったのである。「塔ノ岳で富士を見る」、今日のテーマが頭に思い浮かんで晴れ晴れしい気持ちでいっぱいになった。
いい気になって山頂からの富士を撮りまくっている私、そうしながらも、あの時撮らなくてもここで散々撮れたのではないかという疑問が浮かぶ余地はまだ残されていた。
山頂から富士のほうばかり見ていたが、ふと反対側の景色をついでのように目にして、そこに老人が座って昼食を取っている姿を発見する。
すべての登山者が富士を向いて座っているというのに、老人は逆側の景色を見ながらひとり握り飯を食べているのだ。その姿に気付いた瞬間、老人はこちらに一瞥をくれたように思われた。が、それも一瞬のことだった。私は見てはならぬものを見たようにまた富士に目を戻し、はしゃぐように山頂の標識を撮り始めて、そうして老人はすぐにまた丹沢の山々に目を戻していた。
もしも、老人の後をつけていたならば、最後まで何の言葉を交わさなかったとしてとして、それでもお互いをたたえ合うような、ある種の連帯感は共有できたはずなのだった。
あのような一瞥ではなく、あのような動揺ではなく、静かな心持を一緒に感じられたはずなのだった。
大倉尾根から金冷シにもどって、鍋割山へと向かっていく。あいにく、前回の道中で私を感動せしめた黄金色のブナたちはすべて枯れていて、枯れ木を空にかざしていた。
期待していたカエデ類の林も同じだった。一斉に葉を落として、私は何度も枯葉をがさがさ鳴らして道を行っただけであった。
今回の旅で、私に与えられたのは富士だけだ。
塔ノ岳の山頂で、鍋割山の山頂で、途中の小丸で、私は何度も富士を見た。
小丸では両腕を広げて、まるで鳥のように、山塊にむかって大きく広げて、そうして、息を大きく吸い込んでは吐き出した。
見よ、この視界を。
後沢乗越から寄のバス停まで、鍋割山からの帰り道、私は何度も、道を行きながらこの両手を広げる動作を繰り返した。
鳥のように、飛行機のように。まるでご機嫌で、絵を撮るようにイメージ通りの写真を描いて行った。
50mmのレンズは面白いように、私の撮りたい絵を映し出してくれるのだった。
楽しい。楽しい。楽しい。
写真を撮ることも、道を行くことも。なんと楽しいと。私はまた両手を広げて。飛び立つように。
くぬぎ山を超えた林道で、いつかの鐘ケ嶽の再来のような静寂の暗い山道に入り込むまで。たった一人で、山神の眠りを妨げたことへの逆鱗を畏れながら、鈴を鳴らして、逃げるように道を行くまで。
私は少しでも歩く距離を減らしたくて、鍋割山の下山の道を人の多い二俣を選ばず、くぬぎ山を巡るコースを選んだのだった。確かに距離は少なかったが、まるで人気がなく、道はけもの道で、何度も斜面から滑り落ちそうになったものだ。
楽な道はないものだ。
そのことを噛みしめながら、目的の寄バス停を目指していた。
時間は2時半をまわっていた。1時間に1本のバスは35分。次は3時35分。まだまだ余裕がある。もしも、遅れたら、次のバスでいい。ちょっと疲れたから1時間休憩してもいい。ちょっと疲れたからバスに間に合うように急いでこの道を下りることはできない。両手を広げて道を行く私はそう暢気に構えていたのだが、あの大倉尾根のテーマパークのような人工の自然が懐かしくなるなるほどのくぬぎ山の「自然」を目の当たりにして、次第に気持ちは沈んできた。まるで山神が、いやそれ以前に熊に遭遇しそうではないか。私は閉まっていた鈴を取り出して、鳴らしながら道を行った。万が一遭遇したら、どうやって倒そうかシュミレーションし始めた。道はあれだけ乾燥していた大倉尾根と打って変わり、濡れているのだ。しっとりと。黒く。雨上がりのように。
そのうち本当に山神のたたりが恐ろしくなってきた。急ぎ足で道を行き、気晴らしに音楽を聴き始める。
わたしを生きていくと宣言した少女。
生ぬるい友情を捨てて、ひとりで旅立っていく。
しかし、その空は、あなたと繋がっている。
いつか、私たちは、きっと、そこで出会うね。
その日までお互い頑張ろうというような歌。私はこの曲が好きだった。
あの少女たちは、出会えただろうか。未来(次の)空で、お互い羽ばたいた姿で、再開することができたのだろうか。
何の拍子か、約束したんだ。ひとり ひとつ 道を選んだ というくだりだったか、約束したんだという思いが私の胸に深く突き刺さった。一瞬の本当にほんの一瞬の出来事だった。
富士を撮ることにかまけて、師匠を見切った自分。山頂でのあの老人の一瞥を思い出した。
私はその後、彼のいなくなった富士の反対側の場所で、一人座って握り飯を食べた。まるで同じ格好をして、富士なんていつでも見れるさと。いやそれとも、若者たちに、特等席を譲るような趣で。
もしかしたら金冷シや鍋割山でまた会うのではないかとも思ったが、その後老人に会うことは二度となかった。
「師匠」が私という「弟子」を待つことは、もうなかったのだ。
写真を撮っている場合ではなかったのだ。
人生を楽しむことが大切だなどと、成功体験だなどとかこつけて、私が見切ったからではないか。羽根を広げて、飛ぼうにも、それは次の空なのか。
約束したのに。私は今、ひとりさみしいくぬぎ山で、山神を、熊を、畏れて、逃げるように道を行くだけだった。
火が付いたように、私は駆けだした。携帯からYELLが鳴り響いていた。もう滑って転げることも恐れずに、とにかく走った。里山の家々が、道が見えると、バス停の標識を探して、見回して、ないとわかると、めくらめっぽうとにかく走り出した。バスの時間まであと5分しかなかった。
約束したんだ。
1時間も無駄にするわけにはいかなかった。マイペースで、一人楽しんで、絵を描いて、飛ぶように歩いて。そして初めて見れた富士。山頂での老人の一瞥。富士に背を向けた姿。
私は今日起こったすべてのことを思い出しながら必死に走った。川沿いの車道を走っても、走っても、バス停の標識は現れなかった。
3時42分。寄ではなくて、次のバス停を見つけた時、すでにバスは通り過ぎた後だった。今日置いて行かれるのは二度目だな、私は苦笑いをして、途方に暮れたように歩道に座り込んだ。
携帯を取り出して、ゲームをはじめながら。そのキャラクターたちの笑顔を見つめながら。
ただ、阿呆のように次のバスを待つしかすべがなかった。