諏訪神社の宇宙母艦〜スダジイとの再会〜

 

 こんにちは。

 今日は隣町の諏訪神社を訪れてきました。

 

 写真は2014年のもの。

 御神木(名誉の木)として祀られているスダジイ(スタジイ、シイの木)は、

 それはそれは見事な姿でした。




 私はこのシイの木を見るたびに、まるで宇宙母艦のようだなぁと感じていたのです。
 
 この世のものとは思えないような、広がりと存在感。

 宇宙的でありながら、どこか母性すら感じさせる・・

 そんな神秘的な印象を持っていました。

 久しぶりにその宇宙母艦に会いたくなり、

 そして鳥居のそばにあった大きなイチョウの様子も気になって、

 足を伸ばしてみることにしました。

 自然破壊の波が広がるなか、木々の無事を確かめたくなったのです。

 訪れたのは、おそらく10年ぶり。





 諏訪神社さんへの道のりは懐かしさでいっぱいでした。

 けれど、途中には新しい駐車場ができたり、梅林が枯れていたりと、

 少しずつ景色は変わっていました。

 「神社の木々は無事だろうか」

 そんな不安を抱きながら辿り着いた赤い鳥居の先に、真新しい建物が立っていて、

 少し驚きました。

 
 でも、私がよく落ち葉を拾っていた大イチョウの木は、
 
 ちゃんとそこにいてくれました。

 それだけで、胸がじんわりとあたたかくなります。




 そして、いよいよスダジイの元へ。

 でも、そこにあったのは、かつての宇宙母艦とはまるで別の姿でした。


 枝が大きく切り落とされ、幹だけが力強く残っていような姿。

 一瞬、違う木かと思ったほどでした。



 

 それでも、太くて逞しい幹と根は健在でした。

 「一生懸命立っていてくれて、ありがとう!」

 そう心の中でそっとつぶやきました。
 


 近ごろ、大木の枝を大きく剪定する光景をよく見かけます。

 きっと木の寿命や安全性のため・・なのだと頭ではわかっているのですが、

 やはりあの枝ぶりの見事さが失われてしまうのは、寂しくてなりません。

 



 特に神社の木々は、そこに「祈り」が宿っているように思えてならないからです。

 できるなら、木のためを思っての処置であって欲しいと願います。




 境内の桜の木も、大きく枝が切り落とされていて、

 やはり寂しい姿になっていました。

 幹は見事なだけに、その対比がなおさら胸に残りました。




 ふと、こんなことを思ってしまいました。

 枝を切っているのは人間なのに、

 まるで木々の方が、人間社会を見限って、

 自ら枯れていこうとしているのではないか、と。

 

 もちろん、勝手な空想にすぎません。

 それでも、あの宇宙母艦のようなスダジイや大イチョウには、

 いつまでもそこにいて欲しい。


 たとえ姿を変えても、そこに佇むだけで、

 私たちに力を与えてくれる存在だから。



 最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。

 今日も心穏やかな一日を過ごされますように。

 願いを込めて。





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