今ここにあることの幸運。〜信仰の山、大山(雨降山)を登る〜
今日は神奈川県伊勢原市の大山、別名雨降山(阿夫利山)に出かけた。
↓ 写真下、電車の車窓から見た大山。今日は天気が今ひとつで雲の中に隠れている。
大山にはもう何度も登っていて、前のブログ(現在は閉鎖している徒然日記Vol.1)では、「大山を登る」シリーズを確か7ぐらいまで書いていたと思う。
私の大山下社(阿夫利神社)から大山山頂までのタイムは、「大山を登る1」では、45分だった。(コマ参道(=登山道の入り口)から下社までのタイムは覚えていない)下社から山頂の標準タイムは1時間半なので、かなり健脚だったのだなぁという記憶である。
で、本日は・・というと。
なんとこれが、1時間20分かかったのである。ずいぶん老いたものだ。
結果的には、お腹の痛みは頂上が近づくにつれて、嘘のように消えてしまった。なので、無事に登ることはできたのだが、山はトイレが不便というのは鉄則なので、お腹が痛くなるというのは最悪の事態である。こんなことは今までになかった。無事にことなきを得たので良かったが、これが酷い便意や腹痛に襲われたりしていたら、登山どころではなかっただろう。
「大山詣」と言う言葉が神奈川県民には浸透している。
ところがだ。
今回の「大山を登る」では、老い以前のことを色々と考えさせられた。
というのも、途中でお腹がかなり痛くなったのである。
確か下社から山頂に向かう道のりだった。お腹がキリキリ痛みだしたのだった。
途中でトイレに行きたくなったらどうしようか、とか。山頂まで行けなくなるかもしれない、とか。あれこれ心配しては気に病んだ。朝食べたもののあれが悪かったのか、これが悪かったのかなどと理由を探して。
「大山を登る」が一瞬で消滅していたことは間違いない。
そして次に、雨がぽつりと降り出したのだった。これも下社から山頂に向かう途中だった。
先ほどまで晴れ間が出ていたのに、不意に雲行きが怪しくなり、水滴が頬を濡らしてくるのだった。ほんの一瞬のことだった。晴れ間はすぐに戻ってきた。大山は雨降山と言われるだけあって、時々天候が悪くなるのだが、それにしても、一瞬どきりとしたのは言うまでもない。
それで私は、山頂まで向かう道のりで考えた。
やけに重く感じる身体で、息を切らして登りながら。(不思議なことに、大山登山は、ぜんぜん難易度の高い檜洞丸や表尾根縦走よりも辛く感じるのだ)
街中には、大山まで向かう道の道標が県内の至る所にあるのだった。
江戸の昔、大山は信仰の山だった。人々がこぞってお参りに出かけたのだった。
もしもここが信仰の山ならば、例えば、ここに来ようと思っても直前に事件が起きたり、体調が急に悪くなったり、雨に見舞われて登山できなくなったり、そういう方もいるかもしれない。そういう事態もあるかもしれない。
偶然という名目で、人は、神仏に呼ばれていない時もあるかもしれない。
そして、たまたま前日に、ある人から伊勢参りの話を聞いたのだ。「直前に何かが起きて、急に行けなくなる人がいるらしいよ」という、行けることが幸運の象徴であるという話を。
もしそうならば、大山もそうではないのか。
今ここにいるだけで、私は十分幸せなのかもしれない。
始発のバスに乗り、山頂に着いたのは、先ほども言ったように、1時間20分もかかった、確か10時半ごろだと思う。その間に私はたくさんの人に抜かれたのだった。
それでも精神的には、かなり満足感を得た登山だった。
ソロかパーティかを考えた、前回、前々回の登山よりも、根本的なことを考えさせられた。登山できることの妙、生きていることの偶然と幸運。
今日は辛かったけれど、ここにまた来れて良かったなぁ。
相変わらずのご立派な枝ぶりだった。
富士山は見えなかったけれど、それでも十分満足だった。
無事登れただけで、尊いじゃないか。
なんとなく、ソロかパーティかなんてどうでもいいことのように思えてくるから不思議だった。
でもまた、次の登山では色々思うのだろうなぁ、などと思いながら。
なんせ、山に登ると、本当にいろんなことを考えさせられるのだから。