猫とラジオの消える日。
近所の公園に猫が住んでいる。きちんと赤や青の首輪を付けた猫たちが公園のあちこちを闊歩しているのである。見た目(汚れ具合)と風貌はどう見ても野良なのに、きちんと飼われている感の鮮やかな首輪が可愛らしい。本人たちも首輪を気に入っているようで、誇らしげにつけているようにさえ見える。
猫たちのために、私がホッとしたのは言うまでもない。日曜日だけ放っておかれるくらいなら、どうにか生きていけそうである。月から土曜日まではご飯にありつけるのだ。
そう思って見てみると、工場の傾き具合が今度は気になってくるのである。騒々しいラジオは鳴らしているものの、工場にいるのは、大抵一人か多くても二人ほど、どの町工場もタバコを吸って休憩している姿をよく見るような気がしてくるのだ。もちろん働いている時もある。鋼材を磨いていたり、車の下を覗いていたり、しかし一番端にある鏡屋はもういけない。職人が見当たらないことが多く、店の前の大量の鏡やガラスもほとんど変わり映えがしない、放置されてた廃材のような状況なのである。潰れるのは時間の問題かと思われてくる。
そうすると、他の工場も次第に怪しく見えてくるのだ。職人たちはどうやら皆お年寄りで、まるで年金をもらいながら細々と自分の工場を続けているような様子ではないか。行く場所を求めて、毎日工場に出勤するものの、とうの昔に仕事の受注などなくなっているかのような、けれども受注が来た時のために、毎日、在庫を懸命に作っているような、そういった健気な働きぶりにさえ見えてくるのだった。
日本の衰退と高齢化を考えると、「あと5年かな・・」と私は呟いてしまう。
この景色を見れるのは、あと5年か。私は、猫たちが集い、ご飯のお皿が並び、そして騒々しいラジオの流れる町工場たちの景色が大好きなのである。しかし、その景色を見れるのは長くはないと感じてしまう。
その時に猫はどうなるだろう。公園から消え去るのか、それとも置き去りにされるのか。
どうにもやるせ無い気がしてきてしまう。猫が消えるのも、工場たちが廃墟になるのも。できればずっと続いて欲しい景色だが・・・
5年過ぎたらどこかへ引っ越してしまいたいな、と私は思っている。今日も散歩をしながら、町工場の前を歩きながら、公園の猫たちと戯れながら。
5年経ったら、廃墟と首輪のなくなった猫たちを見る前に、どこかへ消えてしまいたいと願っている私がいるのだった。
それが、要らぬ心配のただの杞憂なのか、それとも無責任な現実逃避なのか、よくわからないが。
ただ、大好きな景色がある日突然消え去るのは、年とともに、何度か経験を重ねてきた。そして、これからも「大好きな景色がある日突然消える経験」を重ねて老いていかなければならないのは、わかっているはずである。
なのに、なぜかこの猫の景色が特別に感じてしまうのである。
この町工場と猫の微笑ましい、多分に気に入っている景色を奪われるのは、もうちょっと耐えられそうもないような予感がする。
まるで日本の終わりをこの目で見るような、その象徴のような気がするからかもしれない。
多分私はあと5年くらいしたら、大好きなこの街からいなくなると思いますね。色々変化していくところを見るのは辛過ぎますからね・・・AMラジオが無くなるのも辛いですね・・
皆さんはそんな経験ないでしょうか?
今日も最後まで読んでいただきどうもありがとうございました。
ではでは、素敵な時間を過ごされますよう。
願いを込めて。