人生のセーフティネットとしての山 〜6年目の週末の仙人峠と霞露嶽登山〜
釜石と遠野の分水嶺、標高887mの仙人峠は、古来より、交通の難所であった。
頂上から釜石側の大橋集落までは『三閉伊路程記』に「九拾九曲と云」とあるように、約4kmの急なくだり坂になっている。
この難所を克服するために、これまで、先人たちはさまざまな努力を重ねてきた。
(第16回釜石し有形文化財公開事業 仙人峠道路開通1周年記念 釜石街道を行くより抜粋)
仙人峠に行ってきた。仙人峠というのは冒頭にも引用したように、奈良時代の古から交通の難所である。ここを通らないと、東北沿岸部の海産物や金や鉄、桧等の建材といった貴重な資源が手に入らない。だが、易々と通れない。朝廷による東北征討が一番最後になったのも、釜石地域の交通が難関であったことが挙げられる。江戸時代になると、釜石街道沿いで鉱山開発が始まり、仙人峠越えはますます重要な課題となった。徳川家康の命により各藩での街道整備が始まった。明治時代には13年に日本で3番目の(釜石)鉄道の運行が始まった(が、わずか2年半で操業中止)。明治20年からは荷馬車、馬車鉄道の整備が始まり(43年の法改正で撤去)そして44年に岩手軽便鉄道が開通する。だが、仙人峠越えは荷物のみ、人々は徒歩や駕籠による峠越えだった。昭和11年、岩手軽便鉄道が国有化され、釜石線となるも、軽便鉄道時と変わらず仙人峠越えは荷物のみ(鉄索鉄道を利用)、人々は徒歩で3時間かけて大橋駅〜仙人峠駅まで峠越えをしたという。敗戦後は昭和25年に釜石線が開通し(国鉄が総力を挙げて取り組んだ最初の工事だった)、徒歩による仙人峠越えはやっと終焉を遂げたが、東京まで3日もかかる道のりである、鮮魚の輸送が厳しかった。漁業の意義が生かせない。自動車が超えられない、という問題もあった。そこで昭和27年、仙人トンネルの工事が始まり、昭和34年、東北初の有料道路として自動車道路が開通した。長年の苦労を経て、人々が仙人峠を易々と通れるようになった瞬間である。
現在では、仙人峠は新奥の細道として整備されており、今回の楽しいトレッキングとなった。
峠の真下の仙人トンネル(283号仙人道路)は旧道となり、現在は交通量がめっきり少なくなった。平成15年に新仙人トンネルが完成し、仙人峠道路は全く新しい道に変わったからだ。だが、そのおかげで、旧道は景勝地、ウォーキングに史跡めぐりといった、新しい道路活用がされており、楽しめたわけだが。
ところで、この新旧仙人トンネルには思い出がある。ここは私が初めて、トンネルを怖がらなくてよくなった大切な場所なのである。トンネルというのは、NHKドラマあまちゃんのラストシーンでも表されたように、人生の暗部や逆境の象徴であり、物語ではそういった比喩的な意味によく使われる。
あまちゃんラストシーン。友と笑いながらトンネルを駆け抜ける。光に向かって。 詳しくは画像元記事を参照 |
で、私は若い頃から大のトンネル嫌いだ。なにせ、暗い、狭い、怖い。ともに駆け抜ける友もいない。まぁ比喩的な意味は置いておいて、実際の話、お化けが怖い。夜中にトンネルを通ろうものなら、バックミラーなどちらりとも見れない。初めて岩手県に出てきたとき、私はよく帰省の際に仙人トンネルを利用していた。通りたくもないが、そこしか道がなかった。先人の苦労など知る由もなかった。土曜の朝早く出て新幹線の始発に乗り、帰りはギリギリまで神奈川にいて、夜の10時近くに夜遅くに新花巻に帰ってくる。あの頃は、大の職場嫌いで帰省が唯一の楽しみだった。だから仙人峠を通過するのは夜の11時を過ぎていた。夜中に通るには怖すぎる道だった。
一度、夜明け前の道で道を間違い、旧仙人トンネル・・昭和34年開通の方だ、・・に行ってしまったことがある。霊が出ると評判だった。新仙人トンネでも怖いというのに、霊付きの旧仙人トンネルの恐ろしさは筆舌しがたいものがあった。延々と続く(と思われる)1km(失礼2km?)あまりの古びた薄暗い道、同伴の猫を頼りに、恐る恐る通った。猫もトンネルが怖いのか、ギャーギャー泣き始めわめいていた。
心霊スポットの旧仙人トンネルの真上が仙人峠(左上) トンネル脇の橋を渡ってトレッキングコースへ(右上) |
そんなこんなで、仙人峠(トンネル)は私にとって鬼門だった。ところがだ、ふとした体験で、この考えが180度変わるのである。ある夜、やはりあれは帰省の道のりで、新花巻から釜石に向かっているとき、妙に風が強くて、霧に煙っている夜があった。やませに覆われていたようだ。あたりは白く濁って視界が悪く、小さな車は右へ左へ車体が揺れる。最低速度を保って走るのが難しく、これは困ったと思っていたときのこと、ふと、白く眩い光があわられた。トンネルである。正面にそびえる山の腹に、ぱっくりと口を開けて、道が続いていた。吸い込まれるように入っていく。中は現実が戻ってきたかのようだ。辺りがよく見え、襲い掛かる風は一切なかった。約4kmの道のりを難なく走っていくことができた。トンネルが怖いと思うのは、ただの大馬鹿だったと思い知ったのはこの時からである。なにせ、あれは、山の腹の中にいるのだ。山に守られている。普通の道よりよほど安全なのだ。(あまちゃんで震災の時に助かった主人公もトンネルの中にいた)その安堵感に包まれた。
私のトンネル嫌いは消えた。岩手の仙人道路は、私の恩人なのである。
トンネル以前の話に戻るが、奈良時代に朝廷の東北討伐で、釜石地域を含む閉伊の討伐が最後になったのは、仙人峠(釜石街道・甲子街道ともいう)のおかげだという。交通の便が悪く、易々と通れなかったので、侵略しずらかったのである。
だから、もしかしたらクドカンは、ユイちゃんをトンネルの中で助けたこと、そしてラストに眩いトンネルシーンを書いたことから、あの震災の意味を婉曲に私たちに伝えたかったのかもしれない。酷な言い方になるが、今自分がトンネルの中(※)にいると感じる方がもしいるならば、実はもっと大きな不幸から守られている時期なのかもしれないと。
※イエスによる山上の説教より 心の貧しい人々は、幸いである
それにしてもなぜイエスはわざわざ山の上で説教したのだろう?
話がだいぶ違う方向へ行ってしまったので、旧釜石街道の仙人峠トレッキングへ戻ります。
かつて馬や人夫が荷を引いて歩いた九十九折りの険しい道は、今ではずいぶん歩きやすいトレッキングコースとなっていた。ほとんど散歩気分で、普通に歩ける。登山という感覚さえなかった。踏み跡のまるでないきれいな雪道が続き、時々、点々とニホンカモシカや狐の足跡が現れる。山頂の仙人堂あとには、石の小祠(文化5年・1808年建立)があり、中には棟札があった。「仙人阪堅牢擁護神」と書かれている。どきりとした。
釜石には昔、捕虜収容所があり、釜石鉱山に連行された288名の捕虜が労働していた。過酷な労働条件と栄養失調から123名が亡くなったそうだ。彼らは製鉄所や護岸工事、そしてトンネル工事にも従事していた。棟札の「堅牢」は大地を司る神(堅牢地神)のことを言っているのだろう。太平洋戦争時とは年代も違う。だが、棟札の牢という文字から強制労働の囚人を連想してしまったのである。先人の時代から続く、私たち労働者を、まるで擁護する神のようにふと思ってしまったのだ。トンネルの中で亡くなった方々の分も心を込めて、お参りをする。
振り向いたら、私に先にお祈りさせてくれた同行の陸前高田の大工さん。お参り待ちで、後ろに佇んでいた。先に雪の踏み跡付けてすみません。ありがとうございました。
前回霞露嶽の山頂で偶然出会った復興仕事のお二方と。今回も一緒に登らせていただきました(※)。
※登山記録はこちらです。
霞露嶽では、本当にいろんな方とよく出会い、ご縁を授かる。ここの山頂からは、多くの尊い命が犠牲となった山田湾が、一望できるのである。仙人峠に行った前日、ちょうど6年目の3月11日は、藪山登山家集団の方々と出会った。慰霊登山に訪れたそうだ。図々しくもご一緒させていただいた。線香を灯し、藪山登山家集団の女性が笛を吹き、一緒に黙祷を捧げる。
霞露嶽の山頂には霞露嶽神社奥宮があるが、今回は山の麓の霞露嶽神社もお参りすることにした。大浦漁港が見渡せる。現在大浦の海岸は復興の工事途中、漁港近くにあった龍の石碑はこの霞露嶽神社に一時移して、漁港の復興を待ちわびているそうだ。元漁師のご老人がそう教えてくれた。
最後に一言・・・
未曾有の大災害によりお亡くなりになった方々に、謹んで哀悼の意を表します。それから遺族の方々、被災された方々すべてに、こころよりお見舞い申し上げます。
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あと、これは個人的な意見だが、現在スキャンダルで騒がれている安倍政権が終わったら、日本は混沌期に突入すると思う。関東は首都直下型地震や、水資源の環境汚染も心配である。静岡が第一弾、日本の水道は順次外資(原発国家のフランス)に売り渡されていく。水が安全でなくなる日も近い。(北朝鮮等の)仮想敵からのゴタゴタもある。トンネルの中に突入する時期だ。奈良の昔より安全だった北日本に避難・・いや、移住していただけたら幸いである。なぜクドカンはしつこくトンネルを書いたのか、イエスは山の上で説教をしたのか、(私はキリスト教や新宗教の信者ではないが・・)現代や古典の物語から何かを察して、現代の危機に生かしていただけたら幸いだと強く願う。
仙人峠を登ったあと、龍泉洞の水と、仙人峠で作られている 仙人秘水を購入しました。アマゾンで購入していこうと思います。 |