『DEATH NOTE』と『2046』と冬の森。
「日本ナショナリズムの解析」、子安宣邦著を読んだ。
正確に言うとさわりだけ読んで、げっそりとした。
これは、明らかに『DEATH NOTE』だ。
先日、映画『DEATH NOTE』がテレビ放映されていて、久しぶりに見入ってしまった。
死神のノートと対比する存在として描かれる「六法全書」がやはり胸に残る。
不思議とその数日前に、六法全書の起源となる「公事方御定書」の話を歴史秘話ヒストリアで見たばかりであった。 (「正義」の話をいたそう!~大岡越前 白熱裁判~1月26日放送)
正義というのは、真実と似ている。
唯一無二の絶対的なものだと思わせられるが、しかし人や立場が変われば180度も逆転する、危ういものだ。「それは、正義だ」、「それは真実だ」と言うとき、人は必ず無意識のうちに「六法全書」を拠り所にする。(しなくてはならぬ)
夜神月(やがみらいと)の父親が言うところの、「不完全な人間が、正しくあろうと努めた歴史の積み重ね」である。
私は過去にこの六法全書を無視して、絶対の「正義」や「真実」を持ち出しては、居場所を破壊したことを思い起こした。
日本を、国学を、愛そうと努めた人々の、努力の積み重ねを、一刀両断の真実で破壊する「日本ナショナリズムの解析」の著者とそう変わりはしない罪を何度も犯した。
著者への嫌悪感と自分への嫌悪感が重なって、何とも不愉快な読感だった。
このような幼稚な書物は、消え去ればいいと。そう過去の自分を裁いていた。
久しぶりに森に行きたかった。
私の町の、私の森だ。
そこに通い始めてからそう長い月日が経っているわけでもないのに、いつしか私はそこを心の拠り所にしていた。素の自分を受け入れてくれるところ、「孤独な散歩者の夢想」を赦してくれるところ。しばらく行っていないというだけで、私は大切な何かを忘れているような、心もとなさ、焦りをふと感じたのだった。
行っても何もあるはずがない。枯れた丸裸の森が横たわっているだけである。
木の名前を覚え始めたころ、この森で一つ一つの木々を見上げて、名前を当てるのが好きだった。わからない木は葉や枝や樹皮を見て、後で調べた。有名どころの木々にはところどころ「この木はなんでしょう」というクイズ形式で、名前が記されている。今日は不思議と、その木々の名前、名前としての言葉が気になって仕方がなかった。
森を入ると、まずであったのが「ムクノキ」。樹皮がボロボロに剝けている。ずいぶん傷だらけの印象だ。名前の由来は、「樹皮がむけることから名づけられた」とある。私は国学者たちの仮名遣いや文法の整理に費やした長い努力の時間を思い出し、これらの木々の名前の一つにも、誰かや誰かの「六法全書」があるのだろうか。などと考えている。言葉には必ず由来がある。そして由来が努力の総和による真実である可能性だってないわけじゃない。いろんな説や、紆余曲折があって定着した呼び名だとしたら・・ そんな風に思う私は、このムクノキが無垢の木に思えて仕方がないからなのであった。
森を進むと、今度は「エゴノキ」に出会う。特に雨の日、鋼(はがね)のようにツヤツヤに輝く彼の樹皮も、さすがに冬にもなると少しはかさついている。
木々たちの厳しい冬。ボロボロの「ムクノキ」と苔を纏った軽傷の「エゴノキ」。しばらく歩くと、今度出会うのは、「スギ」だ。
「味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が いはふ杉 手触れし罪か 君に逢ひかたき 丹波大女娘子」
和歌とともに立っている。スギは、ヒノキやヒバと見分けがつかなかったり、どこにでも植林されていたり、花粉で被害をこうむったりと、何かと見くびられがちな木である。私もほとんど敬意を払っていなかった。が、この木なんでしょう、の立て看板にこんな文字を見つけて驚かされる。
「日本特産の木で材は優れ、わが国ではヒノキとともに最も大切な林木です。水分の多い谷間に好んで生長し、大きな木は高さ45mにもなります。(スギ科)」
家具からヒノキの匂いがすると高級感に満たされたが、スギは安っぽい。が、スギもそのヒノキに負けず劣らずこの国とって最も大切な木だったか。谷間に好んで成長するというのも意外だった。地図読みを始めてから私が大嫌いな谷を、まるで彼が精通しているようで心強く感じたのであった。自分の名前に、この木の漢字が一文字入っていることを好ましく思ったのは、生まれて初めてであった。「スギ」の名の響きが、由来が、まるで自分を守ってくれるような思いがする。そして、その存在はといえば、こちらも樹皮がボロボロなのであった。「ムクノキ」よりひどいのではないか? ずいぶん冬は堪えると見える。
ケヤキは、「際立って目立つ木、けやしき木」から名前が起こった。
ヒサカキは、「サカキより小さいので姫サカキ」から。
ミズキは、「春先に枝を折ると水が滴る」ことから。
去年、梅や早咲きの桜を撮ったお気に入りの場所へ行く。森の中にある郷土民家園である。入り口付近には白梅。古民家の裏山の小さな畑には、桜が一本。
今年はまだ時期が早かったか、梅はかろうじて咲いていたが、桜は一花、二花しか開いていない。それでも嬉しくて、200mmの望遠ズームレンズで撮り始めた。が、どうも調子が上がらない。風が強く、花が揺れる。ピントも合い辛く、光も、色も、うまく出ないので、思い切ってモノクロにしてみるが、こちらも尚更の失敗。去年よりも、良く撮れないのであった。
自分が撮った写真を見て、へたくそだなぁ、と心底思ったのは久しぶりのことであった。
最近ではそう思うことは少なかった。それはうまくなったから、と言うよりは、そういう価値観や基準で、写真を見ていない、撮っていないと言った方が当てはまる。
そうだ、久しぶりに、恥ずかしい言い方をすれば、「芸術的な」、「作品としての」写真を撮ろうと、奮闘しているのかも知れなかった。
花は美しく撮ってあげたいものだから。
誰よりも美しく撮ってあげたいものだから。
桜の大失敗を立て直そうと、今度は梅に挑む。去年は色温度を変えたり、アプローチを変えて試行錯誤して撮った記憶があるが、今年はシンプルに行きたかった。普通に、綺麗に撮ってあげたい。白梅は雪のように連なって、縦に枝を伸ばしている。真っ直ぐ伸びる様や、その根元の時折見せつける芸術的に歪曲する様や、白い花を彩る真っ赤なガク。
梅は桜と違って、ずいぶんと優等生的だ。妖しい美しさはないが、清楚で、生真面目な、少女のようだ。なのに、力強い枝の曲線、外へ開くというよりは上へ伸びる枝。私は何度も「梅は~咲いたか~」と小唄を口ずさみながら、何とかこの可愛らしさ、可憐さを描こうとするのだが、何度も、何度も、構図と光の角度を変えても、玉砕した。
一息入れた時には、手ががくがくと震えている。久しぶりに重いレンズや三脚を一心不乱に振り回して操っていたせいだろう。
諦めきれずにこの後、少し距離の離れたところにある梅林に足を延ばそうと思っていた。
あそこならもう少し咲いているかもしれない。うまく撮れるかもしれない。
花の美を捉えようとすることは、不完全な私が努力の総和を一足飛びで飛び越えて、真実を見つけようとすることに似ている。『DEATH NOTE』を極めない限り、その世界観は得られないような思いもする。個性というものは残虐だ。
不完全なまま、君臨する。
それは独創性とは少し違う。私はそんなことを後で思ったものだが、その時は、ぼんやりとしながら、ずっと映画のことを考えていたのだった。
昔見た「2046」という映画のことを何度も何度も考えていた。
文章を書けなくなった男が、哀しい結末を変えようと、振出しに戻る未来の超特急電車に分身を乗せる。分身は、男が過去に失った恋人とよく似たアンドロイドに出会い、恋に落ちるが、アンドロイドは分身を拒絶する。男を思い続けて、長い時の中で、男同様に少しずつ壊れていく。
昨日、この映画を全く完全に捉えた文章を読んだのであった。
ところが私はこの映画の内容を完全に忘れていた。
ただ、結末が「絶望的なくらいに哀しい」と思ったことしか覚えていなかった。
当時私は、この物語を正確に理解していたのだろうか。理解していたなら覚えているはずなのに、記憶もないのに、誰かの文章を「完全な映画の解釈」だと心の底から信じている自分がいる。もしもその通りの映画ならば、私の思うあの映画の通りだと。
2046は未来であるのに、過去である。2046から帰って来た者はいない。男を除いてはいない。そして、分身を乗せた超特急電車はどこにも辿りつかない。
なぜ、偽物(分身とアンドロイド)でしか、振り出しに戻すことはできなかったのだろうか。
なぜ、アンドロイドは、分身を拒絶して、そのままの男を求め続けたのか。
男は、現在を捨てきれなかったのだろうか。もしも、その道のりが、「六法全書」のような努力の総和であったとしたならば、振出しに戻ることは、そう、やはり分身にしかさせ得ることはできないはずだと思いながら、(自分が戻ることは死に値する罪悪だと思った)でもなぜ、男は誰も戻ってこなかった2046から一人戻ってきてしまったのか?
「六法全書」が完全になる時は来るのだろうか。もう追記することが何もないほど、何も書き足せなくなるほど完全になる時、『DEATH NOTE』は消え失せるのだろうか。
人は歌えなくなり、完全な球体となって、欠片もなく、寄り道もせずに転がるようになって、木の樹皮は剥がれなくなり、それならば、なぜ永遠の愛を手に出来なかったのだろうか。
もしも、そうならば、まだ書くとはあるはずなのに。不完全ならば、歌えるだろうし、もしも完全ならば、誰かに「六法全書」を示してあげることはできるはずなのに。
なぜ、内容を思い出せない映画のことをずっと考えているのか、私は不思議でならなくて、もう一度この映画を見たくてたまらなかった。
そして、昨夜見た完全な解釈である(と思った)映画の文章が、本当であるか確かめたかった。
「2046」ってそんな映画だったかな。あの時感じた、「絶望的なくらい悲しい結末」は、「その通り」だっただろうか。
息苦しさを覚えながら、たどり着くと、梅林は見事に裸木が並んでいた。
一花、二花、やっと咲いている程度、小さな蕾があることはある。それも紅梅だけで、白梅は蕾さえ膨らんではいなかった。申し訳ない程度の小さな花芽。
私はがっくりして、途方に暮れた。
これでは、努力さえできない。
それでもやはり重たい望遠ズームを振り回して、何とか撮った。そのうち、軽い標準ズームに切り替えて、手持ちで撮った。
時折散歩者が訪れる。中年の、浮浪者のような、男が、小さなカメラを持って、必死に撮る。
夫婦連れは、私を畏れて足早に通り過ぎる。小さな子供と母親は、明るい。
「梅が咲いてる~!」
「撮って、撮って。ここ~」子どもがはしゃぐ。
僅かな花にその声が嬉しかった。人が消えると、裸の梅が立ち並ぶ侘しい梅林が戻ってくる。私はぐるり一周して、今日を諦めてレンズと三脚を片付ける。
へたくそだ。こんなにへたくそだ。へたくそだ。
ずいぶん成長したつもりでいたが、去年にも劣るへたくそだ。
ぶつぶつ独りごちながら歩いていると、ふと電球が閃くように思いついた。
ああ、これが原点か。
この森に来て、思い出さなければいけなかったのはこれか。私はまったく不完全だ。
そして、状況は努力もできぬほどに、まだ冬である。
私はノルウェイの森を連想する、とかつて思った私の森を歩いていく。間引かれて、葉を落として、寂しくなったすかすかのその場所の春や夏に思いを馳せる。
木々の樹皮はやはりみな痛々しく剝けていた。
「2046」を見なくてはならない。
なぜか、決意にも似た思いで、そう感じながら、道を急いでいる。
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