大山道中と「大日本人」
大山山頂の標識と御神木
9月、4日、土曜日。ここ2、3日、秋風をふと感じたので、大山に出かける。
大山、別名「雨降山」。標高1252m、標高差+1029m、-1029m、山伏や行者たちの修行場だった丹沢山塊のひとつ、775年に開山され、のちに真言密教の修行道場となった山である。
庶民的な山として親しまれているが、私にとっては中級クラスの山である。炎天下では登りたくない思いがあった。
本当は最近森を見ていないので、木々に出会いたかったのである。また、ひんやりとした渓流沿いの登山道を行きたかったのである。確か大山には滝沿いの登山コースがあった。
前日に計画を立てたので、あいまいな記憶のままである。高尾山と勘違いしていたことをバスの中で思い出した。即興で、行ったことのない「見晴らし台ハイキングコース」を選ぶ。滝沿いの登山道ではないが、途中、涼しげな二重ノ滝を拝むことができたので、目的の半分の半分、四分の一くらいは達せられただろうと勝手に決める。
前回の登山実験で、私は疲れない山の登り方を覚えていた。瞬発力のある速筋を使わず、持久力のある遅筋を使う。遅筋はパワーがないので、慣れていない私はだいぶコースタイムが遅くなる。それでも、一度でも無理して速筋を使ったら、それでもしも傷つけたら、この気候で山頂まで行くのはしんどくなるかもしれない。阿夫利神社下社あたりで、もしくは見晴らし台あたりで引き返す羽目にはりたくはなかった。なるべく、遅筋だけを使って登れる道筋を探した。ない時は斜めに登って筋肉への負担を避けた。道が分かれている時も、迷わず安易な道を選ぶ。自分の足のことだけを考えていた。傷めないように、山頂へ行く前に少しでも傷つけないように。正しい登山コースは、足に優しい道であった。
で、ふと私は自分が政治家のように思えて笑ってしまったわけだ。真実よりも、挑戦よりも、国や国民のためよりも、まずは保身―
そんな私を罰するかのように、突然妙な標識が現れるのである。
今日は全然疲れないなぁ、さすが遅筋効果だな、と浮かれていた私の目の前に、目を疑う文字、『熊出没注意』。
「熊の目撃情報がありました。熊に遭遇したら、刺激しないようにし、あわてずに静かに立ち去りましょう」
前の前には、いかにも熊が現れそうな細い林道。私の前にも後にも誰も登山者はいなかった。
熊、もしも現れたら、どうしようか?
とっさに考える私。
どんなに遅筋を使って体を守ろうと、熊に喰いつかれたら終わりではないか?
左・熊出没注意の標識と細い登山道の入口右・見晴らし台ハイキングコース
右・山登山道に多いモミの木、八犬坊上屋敷跡のもの。左・二重社の杉。
想いは、狭く、浅いものほど罪が少ない。
学生時代によく仲間たちと訪れていた道を、時が過ぎて、一人になった「ぼく」が再訪するというブログを読んだ。
彼はあの頃のバス停で回想する。『あの頃一緒にいた者たちはみな「誰か」になってしまった。自分と相方だけを残して、ぼくらは世界を切り離した。それとも、彼らがぼくらだけを置いていってしまったのかもしれない。でも僕はそういうレトリックが好きではない』と。
私はそれで驚かされたわけだった。物事はすべて相対的なものだと思っていた。だから、書き手がそれを「レトリック」とすることが意外だったのだ。で、私は次の瞬間とても哀しくなった。
嫌いと否定することで、「ぼく」が片方の道を選ぶために失ったものの大きさを、突きつけられたような思いがした。その時の決断も、その時の思いも、代償として差し出したものも、すべて無にしてしまうように感じられて不愉快だったのではないかと。
ぼくはその決意のまま、罪も哀しみも受け入れたまま、生きていかなければならない。「誰か」の消えたバス停で、救いさえも否定する彼が哀れに思えた。
私はこういった、たとえ自己否定しようとも、相対的に物事を見る人と言うのが好きなのだった。矛盾を見つめる想いには広がりや深さを、それから罪を感じるのだ。狭く、浅ければ、無知なだけだと言うのに。彼らはすべての原罪を背負って、自らを哀しませている。歳を取るということは、この哀しみをいくつ増やすということなのか。
大山行きのバスの中で、私は本を読んでいた。歴史の相対性が切り取られたような、しかしその中から動かしようのない歴史の真実が浮き上がってくるような、そんな本だった。
作者は渡部昇一さんと田母神俊雄さん。田母神さんは懸賞論文のために、自衛隊トップの座(当時)を奪われ、更迭されたことで有名である。
本の中で、私が一番感慨を受けたのは、「日本が侵略国家ではない」という思想そのものではなくて、「村山談話」が意味するところのものだった。
日本の歴史に泥を塗るものだとか、先人たち想いも努力もすべてを貶めるものだとか、そういう売国政治家による売国談話だという認識はあったが、まったく狭く、浅く、無知であった。
あれは、「言論封殺」だと田母神氏は言うのである。彼がされたことを詳しく聞けば、言わなくても、まさにそのままというところだった。
歴史の真実は関係なく、片方の道は閉ざされているのだ。
左・見晴らし台ハイキングコースの二重の瀧が流れる谷に倒れる木々。
右・うねるアカガシの木。
熊と格闘する場面を思い描いた。「真実の道は保身の道」と、ただそれだけを順守していた私に青天の霹靂の熊出現標識であった。
映画「ザ・ワイルド」の中で、熊を殺さない限り、生きて帰れないと決意したアンソニー・ホプキンスの鬼の形相が浮かぶ。「やつを殺せ!」そうだ、やつを殺せ!
熊を挑発しないように、静かに逃げましょう。と書いてあるにもかからず、私は挑発することばかり考えているのだった。だって、静かに立ち去ろうとしたら、後ろから襲いかかられたら終わりではないか。熊と見つめあい、じりじりと後退する。襲いかかってきたら、すぐにこちらも交戦状態にはいれるように武器を探している。のどかな山道には、細い枝のかけらがあるだけである。
やつと一戦を交えることになったら、腕一本はまず諦めようと即座に思った。
左腕にパタゴニアのジャケットを巻いて、それを盾にする。やつに食いつかせる。その隙に脇か心臓を打つ。木の枝で刺すつもりなのか、私は果敢に想像しているのだった。とにかく身の一部をちぎられても、この魂が残っていればみつけものだ。それだけは喰わせるものか。肉体の一部などくれてやる、と興奮しながら思っているのだった。
そうしながら、速筋を使わないように、足を護って、道を行く。
何とした矛盾!バカげたこと。政治家にもこんなものか。熊が襲ってきたら、あの保身の塊のような彼らも同じように思うのか。熊を倒そうと言うだろうか。
右・ブナの紅葉 左・山頂付近の登山道
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大な損害と苦痛を与えました」
日本が植民地支配と侵略戦争をしたと認める談話である。政府の見解は、首相が変わろうと、政党与党が変わろうと、ずっとこの村山談話を踏襲している。
つまり、この談話の以外の見解は、いくら憲法で言論の自由を謳っていようが、言葉上も思想上も禁止されているのである。政治の中はもちろんのこと、日本政府の要職にある人はすべて、公の場で発することはできない。軍人も、大学教授や教師も、歴史家も(村山談話では「日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し」、各国との「平和友好交流事業を展開する」とある)、別の見解は持つことが許されていない。
軍人なら、侵略国家ではなく愛すべき立派な国だと思えなければ命を賭けて護ることは難しいし、教授や歴史家ならば、自己の学問や研究のために真実を見なければ存在意義がない。ところが、「村山談話以外の見解は赦されていない」。もしも、彼らが国のために、公のために、何かをしても、それが政府に見つかれば罰せられる。ここでは相対的な真実は「赦されていない」。
国を守ろうとした田母神氏も、今現場で苦しんでいる歴史家たちも、論文もまともに書けない教授や憲法学者も、みな「大日本人」である。
私はバスの中でダウンタウンの松っちゃんが作った映画を思い出して仕方がないのだった。国を守るためのヒーローは国からも国民から総スカン。ないがしろにされるどころか、激しく叩かれている。
ラストがまた泣ける。すべてを解決するアメリカンなヒーローは、大日本人たちが誰から褒められなくても認められなくても命がけで行ってきたことを、あっけなくクリアしてしまうのだ、それをショーとして。国防も、愛国心も、歴史研究もすべては見世物だ。観客にどう見せて、どういう効果(金)を得るかしかアメリカンヒーロー達は考えていない。虐げられた「大日本人」とは雲泥の差で、強く、人気者なのだった。
もしも熊を倒したとして、街に帰った私にまつわる醜聞が手に取るように分かる。「熊と戦って、腕をなくした女」。静かに逃げればいいものを、熊もかわいそうにね。お腹が空いて山から下りてきたのだから、木の実でも食べたら静かに戻っただろうに。
女一人で熊と戦って、腕をちぎられたというインパクトはものすごいものだろうと容易に想像できるのだった。
登山道は熊避けではないだろうが、植林された木々を護るため(鹿から?)に鉄柵が作られていた。細い幹のまわりに四角い柵。ブナの幼木や、大山に限られて自生しているという貴重なモミの木のために、原生林のあちこちに柵が張り巡らされているのだった。
見晴らし台までのハイキングコースはこの鉄柵と黒い枝をくねらせたアカガシばかりが目立っていた。どちらも物々しく、特に奇妙な形のアカガシは枝をふと曲げて伸ばしてきそうで不気味なのだった。宿っていそうだなぁ、と私はこの不気味さも気に入って写真に撮ってはいたのだが、自然の匂いが深ければ深いほど、危険も多いように思われた。
私の癖だ。怖い時は、余計なものを目にしないように、視界を狭くする。異形の者ともしも目があったならば、もしも恐ろしさから探してしまったならば、心の隙にすっと入られて捕らえられてしまいそうだ。モミ、柵、ブナの幼木、曲がりくねるアカガシ、木の葉の道。私はそれだけしか目にしないように努めた。木蔭から音がしようと、振り向いたりしない。風の音でも、たとえ虫の羽音でも。
上左・柵に囲まれた木々たち
左・見晴らし台のベンチ。右・見晴らし台からの展望。
田母神氏が更迭されたように、この国を護るために、真実を告げるものは、「大日本人」と化す。
日本人は「ヒーロー」が大嫌いだ。漫画の中ではあんなに好きなのに、現実に見つけてしまうと、叩き潰さずにはいられない。
で、散々虐げられる「大日本人」をまたしてもよりいっそう苦しめる談話を発表したのは、菅総理大臣だったか。
もう日本は強制的に朝鮮を併合したものとされてしまった。強制説が公式見解だ。
今後二度と、公には「併合は合意があった」などと要職の者たちは口にすることができないのである。考えることさえも、赦されないのである。
真実は、陰で言われなければならない。そして、大日本人たちの苦悩が、哀しみがまた増えていくのだ。
ところでこれは何なんだろう。歴史は相対的なものと決まっている。とくに戦争による支配や侵略が絡めば当たり前ではないか。なのに、どうしても、もうひとつの道を遮断するこの国と言うのは、何なんだろう。どうしても相対化する他国の歴史観だけを見つめて、自国の歴史の真実を見つめなようとしない日本人と言うのは。
怖いのか? 見てしまったならば、そこから熊でも飛び出してくるとでも?
左・阿夫利神社の参道。右・山頂の雨降山御神木のブナ。
山頂の眺望。
「熊の道」を行くこと30分、見晴らし台はあっけなく表れた。
私の足は無事だった。まだまだ、歩けそうだった。見晴らし台との名の通り、眺望が素晴らしい。ベンチが眼下の景色に向かって並び、登山者はみなそこに並んで座って、秦野の町を、相模平野の展望を楽しんでいる。
後方には大山の山頂がそびえていた。が、まだまだ登れそうである。ここを終点として、お弁当を広げ始めた家族連れを尻目に、休憩を終えた私は荷を背負って、また歩き始めるのだった。
青い青い空。白い雲。家族連れの笑い声と、展望を見下ろして一服をするハイカー。
のどかな平和な一場面。何と平和なこと。こんなほのぼのとした小さな山で、熊と本気で格闘することを考えていた私の愚かなこと。
私は山頂の阿夫利神社でお祈りをした。念入りに、特に念入りに、参拝をした。
今日の日を無事に過ごせたこと。また、私の周りの愛する者たちが、健康で、笑顔で、事故など起こさず、無事に今日一日を過ごしていることを祈り、感謝の心を告げた。
この当たり前の一日が、神の御加護による幸運によって支えられているかもしれないと。
まるで、大昔の山伏や行者のようにこうべを垂れるのだった。
次に来る時は、武器を忘れないだろう。山で使うための、小さくてもいい、ナイフをそっとポケットに忍ばせてやろうと考えていた。
どんなに叩かれようと、世界の中心から更迭されようと、私の生活も身も、私が護らなければならなかった。
いや、まさか政治家が熊を恐れて国を売るとは信じ難い。
彼らは足を守り続けているだけではないか。
それとも、もしかしたら、これは、決意なのだろうか。敗戦して、東京裁判を受けて、犠牲になった者たちすべてを代償として、平和を手に入れたことの。平和的な国際的な国家を築きあげようとするための広く深い想いの罪なのだろうか。哀しみを以て、もう片方の道を閉ざしたと?
しかし、村山談話にも、菅談話にも、決意以前の相対的な側面を見つけることは難しかった。あの名も知れぬブロガーの「ぼく」ほども、私を哀しませはしないのだった。
あるのは、狭く、浅い、罪のない思想。愚か者そのままのまさに象徴しか―
泣いているのは、「大日本人」たちだけだ。
彼らだけが、相対的な矛盾を見つめ、戦前で孤立しながら。
失ったもののことを思っては、罪を背負い続けている。
山頂の阿夫利神社。
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