無計画の空想的リアル。映画「パラサイト〜半地下の家族」を見てきました。




 3連休。ですか? おはようございます。
 わたくし、映画パラサイトを見てきました。今日はその感想です。

 どうなんでしょうね。この映画、本当に、正当に評価されているのか・・・
 アカデミー賞作品賞というのは、あの映画のブラックユーモア、というより、サイコホラーコミック? 的な計算されたバカバカしい部分も含めて、きちんと評価してくれているんでしょうか。

 社会派の金字塔!! なんて、バカな感想を言う奴がいるから疑ってしまいます。。





 どこが社会派だよ。あんなサイコな韓国人がいるか。
 格差を描いてるからって・・・ 半地下に住んでいるところだけでしょう。パクっている(なぞらえている)のは。
 ぶっちゃけ、抑圧されていた一人の男が、怪物くんになるまで、という、ただそれだけの物語だったんですよねー。
 ただすごいのは、それを、綿密に計算されたカメラワーク(アートワーク)と、脚本の力で、ドラマチックに、かつ詩的に表現しているんですよ。あと、役者の演技力ね。それらを駆使して、まるで社会派ヒューマンドラマのように、訴えかけてくるわけです。
 おお、危なく騙されるところでした。
 
 映画としてはとてもよくできている作品でした。ツッコミどころは満載ですが、巷に溢れている多くの映画と比べたら、大大大成功でしょうか。素晴らしいです。
 でも思想性はゼロです。ここのところ忘れてもらっては困る・・・
 ドラマチックな映画として完成させる前に、何を表現したかったのか。メッセージ性をもう少し考えて欲しかった、というのが正直な感想です。


 長い前置きになりましたが、では、あらすじから順を追ってお話しします。



 キム一家(父ギテク、母チュンスク、息子ギウ、娘ギジョン)は全員が失業中。半地下での貧しいその日暮らしを強いられています。ある日、息子ギウの友達が祖父の遺品の「富をもたらす石」を持ってやってきます。そして留学するその友人は、自分の代わりに、丘の上の大富豪パク毛の家庭教師の仕事をギウに託していくのでした。




 やっと唯一の稼ぎ手を手にしたキム一家。しかし、彼らの「飢え」はこれで満足することはありません。ギウは文書を偽装して(大学生と偽り)パク家の娘の家庭教師としてまんまと上がり込み、次はパク家の下の息子の心理療法士兼家庭教師として、娘のギジョンを送り込むことに成功します。
 次はパク家の運転手として、父のギデクを、その次は家政婦として母のチュンスクを、それぞれ元いた使用人を陥れて、追い出して、それらの職を手にします。

 家族全員がパク家の寄生虫になることに成功したキム一家。しかし、ここでも彼らが罪悪感や義務感からストイックな仕事人になることは決してありません。

パク家の息子の誕生日に一家が一晩家を空けたのをいいことに、キム家はパク家の豪邸に上がり込み、家族で酒盛りを始めます。「(追い出した運転手は)次の仕事を見つけたかな・・・」と父親。「私たちのことだけを考えて!」と怒り出す娘。突然の嵐。すると豪雨の中を、前の家政婦がやってきます。

 「忘れ物をしたので・・・」

 家に入れてくれという元家政婦。雨に打たれたせいもありますが、豪邸で働いた時とは一変した形相です。自分らの代わりに格差の階段を転げ落ち、「落ちぶれた」家政婦の訴えにキム一家は恐れおののきます。

 「家に入れてください・・・・」

 

 さて、あらすじはここで終了です。このあとは映画でお楽しみください。
 ここからネタバレ感想になりますので、読みたい方だけお願いいたします。


 ここまでは、どちらかというとこの映画コメディなんですよね。「詐欺の天丼」も、韓国人ってこんなにサイコなのか、と驚きながらも、まだ許せます。笑いながら、まあアリかも。と思ってしまう自分がいる。自分ならやらないけどね! 映画だから許せる面白い作り物の物語、という感じです。
 ところが、この中盤の嵐の夜から、突然サイコホラーになります。この映画の評論で、「深層心理のように地下を探っていくと怪物が暴れ出し・・」と書いていた方がいらしたんですが、まさにそんな感じ。この豪邸には実は隠された地下室があり、そこに元家政婦は夫をかくまっていたんです。この夫が借金取りに追われて行き場をなくした、半地下家族よりも更に下の格差の「貧しき人々」・・・下には下がいました。

 この酒盛りの最中に、印象的な会話があるんですよね。パク家の(何度もキム家に騙される)人のいい奥さんのことを「優しい人」というんです。「金持ちなのに優しいな」「金持ちだから優しいんだよ、私がお金持ちの夫人だったらもっと優しいよ」と妻。

 つまり、この映画の中では、お金と深層心理は比例して格差が広がっていく。金持ちは心やさしき凡人、半地下家族はちょっとイカれた抑圧者、地下人は怪物(モンスター)という、人として徐々に下っていく描かれた方をしているんです。
 精神的に病んでいく過程と、お金は比例しているのか。ドストエフスキー並みに、ポン・ジュノ監督は「貧しき人々」の悲哀のみを書いている・・
 ラストに、父親は一線を超えてしまう。かろうじて、半地下人でこらえていたものが激流して、堰が切れたように、モンスターと同化し、自らモンスターに成り下がってしまいます。

 しかもその原因が・・・臭いという・・
 家族を殺されそうになってるというのに、怪物に同化してしまうという・・・
 ツッコミは消えませんが、それでもこの役者(父親役)が最高なんです。
 インディアンの仮装がぴったりはまっていて、まさにインディアンの抑圧の歴史が乗り移ったのではないかと思えるくらい・・ 




 役者も良かったけれど、格差の描き方が見事でしたね。半地下の家族の街のセット(舞台)、ものすごくドラマテックで、哀愁があり、よくできているんです。ブレードランナーの日本のセットを思い出しました。それとカメラワークがね、見事。とても詩的なんです。美しい、とさえ言っていいと思います。こだわりぬいた格差のショットを、これでもか、と美しく見せつけられる感じ。脚本もいいんですが、絵的に、格差を訴えかけてくるんですね。

 まぁ、その辺が社会派の金字塔と言われてしまう所以なのかもしれませんが・・・



 どう考えてもサイコホラーでしょう。犯罪の天丼から、クライマックスから、ラストの締めまで、歪んでいます。

 どうして、あそこまで作り込む必要があったのかなぁ。

 クライマックスの怪物が暴れるサイコホラー乱闘シーンさえなければ、もっと好きな映画になれたと思うんですが、まぁ、映画を盛り上げ、オチを作るためにはあれくらいは必要かな、とも思いますが。
 でなければ、アカデミー作品賞なんて取れないですよね。
 怪物に同化して、自ら怪物に成り下がった父親が、地下人、になるくだりは、もう物語としては見事と言うほかありません。

 「物語としては」と前おくのは、どう考えても、元家政婦の遺体と一緒に地下に住むのは無理だろうというツッコミ、それから、地下人になるより刑務所に住んだほうがよほどましだし、心理療法的にも効果があるだろう、と思えるからです。
 それ以前に、怪物になるか???
 いくら(半)地下人が貧しさから心が病んでいたとしても、韓国の格差に苦しめられている人々の全員が全員、無差別殺人者になるわけではありませんし、家族を殺している男に同化するわけでもありません。
 臭いという「きっかけ」に抑圧のネジが切れてしまうわけでもありません。
 つまり、現実的ではないんです。物語(映画)として成功することを優先して、リアルをうっちゃっておいている感じがどうしても否めません。
 



 映画的に、いいなぁ、と思えるエピソードが一つあります。
 これが、唯一の思想性かもしれない。父親が言うんです。

 「計画があるというのは、無計画のことだ。計画するから、予定が狂う。計画しなければ予定外のことは起こらない」

 あのインディアンのようなお顔でしっぽりというんですよ。最高でした。
 そして、ラストに、息子は、その通り「計画」を実行します。

 つまり無計画を・・・父親を救出するべく計画を立てるんです。無計画という計画を。

 ラストのラストまでよくできた映画でした。

 そして、この無計画が現実になることは決してないだろう、とわかっているだけに、切ないのだろうと感じました。(多くの人々が感想を抱いていたように、あそこから這い上がる方法はおそらくないだろうと思われるからです)

 切なさも、詩的に表現されていました。
 這い上がれない半地下の人々。ラストのラストまでよくできています。

 うん、社会派の金字塔と言われてしまうのも仕方ないのかな?


 私的には、何にも思想性に感動はできなかったんですけどね。




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