みちのく紅葉巡り編② ~むつ湾と蔦沼の終焉の地~


 
 みちのく旅行2日目、青森県むつ湾の夏泊半島へ向かう。昨年、田舎館村で知り合った友人が、年賀状でこう言ったのだ。「今、夏泊にいます」

 「今度ぜひ夏泊にも旅行に来てください」

 私は面食らったものである。田舎館村での出会いを劇的に感じていたので、裏切られたような思いさえしたのである。何だ、安易に辞めてしまったのか。恐らく、ふらふらしたフリーターで、今度は夏泊のゴルフ場ででも働き始めたに違いない。過去の我が身を見るようにがっかりしたのである。

 ところがこれがとんでもない間違いだった。そもそも、彼女は田舎館村の役場で20年間も働いていたのだ。辞めるには、並々ならぬ決意が必要だったはずである。

 夏泊半島は青森県東津軽郡の平内町(ひらないまち)の北方、むつ湾に突き出した格好の半島である。半島に行くには、青森市街の中心部を湾沿いに北上し、津軽半島と下北半島のちょうど真ん中あたり、かつて「青森の熱海」と呼ばれたリゾート地の浅虫(麻蒸)温泉を目標に進み、浅虫温泉を通り過ぎたら、今度は半島先端の夏泊崎の大島目指して向かって行く。私に夏泊行きを決めさせたのは、この大島の写真だった。平内町のホームページの大島の写真を見て、これはちょっといいな、と思ったのである。友人は仕事で会えないかもしれない。それでも行ってみよう。

 ちなみに、平内町の平内(ひらない)は、蝦夷語の「ピラナイ」を語源としている。蝦夷と言えば、あの前回の八幡平で、田村麻呂が蝦夷討伐祈願の宮を建てたというあの縄文人の末裔の蝦夷である。
 そうか、平内は蝦夷の町か。蝦夷語のピラナイ。「ピラナイ」の「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は河川のことをいい、「山と山の間の川が流れる土地」という意味だそうだ。

 山と山の間の川が流れる豊かな土地平内は、鎌倉時代から南北朝時代末までは南部藩領、室町時代の永享年間は津軽藩の所領となり、南部藩と津軽藩の境界をめぐる紛争が絶えなかった。そのため、徳川時代、両藩で協議をして「四ツ森」と呼ばれる藩境塚を作り、馬門・狩場沢の中間の小川を挟んで東西の境界標とした。(と、いうと聞こえがいいが、幕府の裁断で平内町民の勝訴になり、南部藩に恨みを残したとも言われている。勝った勝ったの狩場沢、負けた負けたの馬門村。俗に言う「烏帽子山争論」である)「四ツ森」は現在も平内町の東に残されている。


 ・夏泊半島全体案内図(平内町HP)
 ・浅虫温泉観光案内図(浅虫温泉旅館組合)



 田舎館村で出会った友人に、青森旅行出発直前に、夏泊行きを計画していることを打ち明けた。彼女は当日はもちろん仕事である。が、小岩井農場にいる途中に電話が来て、何と夏泊と(私が行きたいといった)蔦沼、十和田湖を案内してくれると言う。仕事は大丈夫なのかと問うと、

 「アウトドアだから、どうにかなるよ」

 私はますます首をひねった。確かにゴルフ場はアウトドアだが・・?
 



ホテルで朝食
いつも早朝に出発するので、
ホテルの朝食は珍しい

青森駅傍から出発 いい天気だ
※小さい写真はiPhone 大きい写真は
一眼で撮ってます


 翌朝、カーナビを夏泊ゴルフリンクスにセットして、国道4号線を北上した。この時点で、私は彼女が何をしているのか、目的地はどこかなの、わかっていない。大島の少し手前に「今彼女が居る」ことだけを知っている。そこが職場なのか、友達と住んでいるアパートなのか、訊けばいいのに詳細も訊ねぬままとりあえず出発した。会えばわかる。幸い、天気はいい。長閑な田園風景にススキ、道の先は紅葉に染まった山々。関東と違って、ど派手な道端の外来種も見当たらない。純日本風の秋の景色だ。ドライブにはうってつけである。青森駅の市街地から夏泊半島入口まで約20分、あっという間に着いてしまった。

 ところがそこからが長かった。夏泊半島入口から県道9号夏泊公園線(通称ほたてライン、夏泊半島を一周している道である)に突入して、さらに5分程走る。青森湾が見えた。約束の時間にはまだ間があると、ついつい寄り道をしてしまう。



県道9号ほたてライン

あまちゃん風の灯台

茂浦島がすぐ傍に見えている

にゃん! 猫発見。

可愛いのう~あっという間に餌を平らげてしまった

突然山の中の景色になり峠のカーブのような道が続く

右手に見えているのは観音崎かな?

またしもあまちゃん風灯台が

浦田沢辺り この辺かと思って電話をかけるが、全くもっと先だった


 トンネルを抜けたら漁村があり、しばらく行くと松が3本立っている。そこで立って待っている。と聞いたのだが行けども行けども、漁村ばかりなのである。山道→漁村、山道→漁村、を繰り返し、約束の時間はあっという間に過ぎて、後で聞いた話では、私のカーナビが古くて、新しくできた道が乗っていなかったそう。そういえばトンネルなんてなかった。漁村に突くたびに、松の木を必死で探すだけである。

 ところで、みちのくは高所に生えるアオモリトドマツに、湾岸沿いの見事にうねった松、道路沿いに並ぶ松、松、松、松ばかりが目に入る。
 いや、ただ単に、今回の旅行では人を待たしてばかりいたので、だから私が松にばかりに目が行った、というだけの話かもしれない。(私は松の語源から、松を見るたびに神を待つ意を思い出すのである。松は神の宿る神聖な木と言われている)それにしても、あの飛行機の中で見た七三分けの落葉樹と常緑樹の常緑樹(緑の方)がトドマツかヒバか、私は未だにわからないのだ。もしもあれが全て松ならば、私がみちのくに対して抱いた神聖な思いも、さらに強まるというものを。

 着いたと思ったら東田沢で、着いたと思ったら稲生で、結局私が油目崎の少し先の友人の居る3本の「松の木」の元へたどり着いたのは、予定より40分以上も遅れた時刻だった。
 むつ湾沿いを走り、道の先に小さな彼女、肥後氏を見つけたときはつくづく、不思議な思いがしたものである。なぜ、よりによって、松の木の下で待っているのか。陸奥の蝦夷の地で待っているのか。私がこの木を神聖な木として崇めているのを知っているのか。単に目印になるという話だとしても、縁とは、偶然とは、何とも妙なものである。
 ふと、神の化身が現れて、その者が遥か太古の昔から、そこでずっと私を待っていたような幻影にとらわれてしまうのである。

 ・・・

 さて、私の幻想はさておき、3本の松は「この地」の象徴らしかった。私はやっとここが、肥後氏の職場あって、会社の社長であり研究者の加くち山氏が人類の未来のために手にした、言うなれば「ノアの方舟」的な救済所であるということを知らされるのである。

 (なんだそりゃ?と思った方は続きを読んでね)



天然資源のゼオライト(沸石)がいっぱいある ※ゼオライトは土壌改良資源であり、
放射能の汚染水を浄化する効果が証明されている
(記事下に研究成果のリンクあり)

亀水?だったかな。パワースポットの水 山と山の間の湧水らしい

人工の海 養殖事業の研究成果を実践中

冬は白鳥も訪れるそう

研究者 加くち山豊美氏
南部ダイバーでお馴染みの種市の出身とか

山にはきのこも・・


こちらは防風に優れたかしわの木かな

油目崎

展望台からの眺め 第一、第二、第三展望台があった

肥後美奈子氏と加くち山豊美氏 むつ湾をバックに

大島と右手にはゴルフ場も見える

中央やや左にうっすらと岩木山

いい眺めです

三人でハイポーズ

養殖事業の人工の海


 さて、久しぶりに再会した肥後氏は観光に出かける前に、職場の社長を紹介してくれると言う。
 ゴルフ場ではなかった彼女のアウトドアの職場に興味を抱いた私は、社長の加くち山氏に挨拶をし、職場を案内してもらうことにした。

 すぐさま、氏の車に乗り換えて、天然資源ゼオライトの山を目にし、清らかな湧水を飲んで、養殖事業の人工海の脇を通り、車はなだらかな山道を登っていく。第一展望台と呼ばれる場所からむつ湾を一望する。出発前にいいなと思ったあの大島があった。すぐ真下には油目崎、西には岩木山、北には函館の陸地までもが見渡せた。
 その間に私は少しずつ、ここで行われていることを知ったのである。


 加くち山氏は蓄養養殖の研究者だった。氏は、近年の温暖化による海水温度の上昇を危惧していた。気象に詳しい山内豊太郎氏によると、地上から化石燃料の燃焼などから放出される年間63億トンの二酸化炭素は、すでに7,800億トンもが大気中に蓄えられており(2006年時点の数字)、そのうち年間14億トンが地上へ、年間17億トン(現在では約22億トン・気象庁より)が海洋へ溶け込んでいるという。しかも、海洋は二酸化炭素はイオンの状態で溶け込んでいるため、大気中に存在する二酸化炭素の量の約50倍もの量を無機炭素の形で蓄えている。それでは海水の温度が上がるはずである。

 加えて、東日本大震災があった。大量の放射能物質が海に沈殿し、太平洋側の海が大規模に汚染された。

 このままでは、太平洋側の全ての漁業者や水産加工魚者にとって大きな死活問題となる。
 また、温暖化と放射能汚染は真綿で首を絞めるように徐々に海を痛めつけ、このままではいつか私たちは海の魚を捕らえて食べることができなくなってしまう。
 高濃度の放射能物質は小型魚から大型魚へと捕食されるだろう。その体内に取り込まれて、食物連鎖によって、最終的に私たち人間を襲うことだろう。

 さらに危惧すべきことがある。米国の地震研究機関発表によれば、北米シアトル沖のプレート上の活断層には1,500kmに渡りズレが生じているという。今後3年以内に地震が起こる確率は90%以上に及び、長周期振動型の地震が発生した場合、日本に到来する津波の高さは20m~30mになるのである。

 加くち山氏は考えた。地球温暖化、放射能汚染、そして地震と津波、これらがもたらす未来の海を想像した。
 氏は、7年の歳月を掛けて日本を一周した。
 温暖化や放射能汚染の影響を受けない海、台風や地震による大波被害を受けない場所を探し求めて、ついにその唯一の場所が、安全な北千島を南下している親潮(北千島リマン)海流を受け、入口が狭く、湾になっていることから大波や津波の被害を受けにくい、ここ、むつ湾であることを発見した。

 氏は即座に渚を買収した。地下水を汲み上げた。陸上に人口の海を構築した。ウニやアワビ、ナマコといった貝類を蓄養養殖を開始し、また、アカモク、コンブ、アオサ、ワカメ等の海藻類を貝類の飼料とするための実験を行った。
 長年の養殖研究成果を実用化し、安全安心な稚貝生産と海藻の種苗生産を行う供給センターを設立し、被害を受けた漁業者や水産加工業者を救おうと日々奔走しているのである。

 海洋だけにとどまらない。今後の事業展開は、すでに医学界で解明済みの海藻アカモクの免疫効果を活用し、食品、薬品を製品化することだそうだ。それらは、飼料として家畜を救い、ウィルスから人命を救う役割を果たすことだろう。


 正直に言うと、事業のことは私にはよくわからなかった。だが、ここで、救おうとしているのは漁業関係者だけではないということだけは理解できた。
 氏は海を救おうとしているのだ。もしくはその恵みを享受できなくなる未来の私たちのために、今力を尽くしてくれているのだ。


 肥後氏は言った。ちょうど良かったのだと。彼女がゴルフ場ではなくて、ここにいて、そして20年間務めた役場を辞めたことに関して。震災があったからね。

 「地元のためになにかしたいと思っていたから」

 私もとんちんかんなことを思ってしまったものだった。
 過去の我が身とは随分違ったものである。




これが3本の松 美奈子の松と呼ばれているそう

中央の白い船が現代版青函連絡船?
津軽海峡を渡るフェリーだとか

大島もすぐそばに見える

かつて地底だったらしき鉱石の浜

でっかいクラゲ発見!

江ノ島のクラゲの10倍以上はある・・

珍しい化石がいっぱい

海底だった証拠だとか

科学技術庁長官賞他数々の賞状が

IT関係担当の藤田昭夫氏

蟹がいっぱい ごちそうさまでした!

夏泊の見事な風景写真

国家プロジェクトにしたい藻の栽培

海沿いに人々の終の棲家の建築計画も

加くち山氏の車を置いて、3人で観光へ出発

運転は日本中を旅した氏に


岩木山も見えてます

メニューの豊富な人気のシェイクを

八甲田山へ向かって

走る 走る

周りはダケカンバ林

銅像茶屋 かつてねぶた祭りの時に来たことがある

またしてもダケカンバだらけ


 カニ汁やら菊のおひたしやらみかんやらさんざんご馳走になった後、肥後氏と私と・・の予定が加くち山社長も飛び入り参加で加わって3人でドライブに出発した。
 本当は夏泊半島を一周する予定だったが、急遽ショートカットに。いや、残念だが夏泊はまた来るから、と思ってあっさり諦め、かねてより見たいと願っていた蔦温泉と十和田湖へ進んでいく。
 運転は日本中を旅して、道を知り尽くしている加くち山氏が担当してくれた。おかげで私は生まれて初めて?いや、写真を撮るようになってから初めて、車での移動中に写真を撮るという貴重な体験ができたのである。

 ブレばかりで殆ど全滅だったとはいえ、走りながらの景色をこれだけ楽しめたのも初めてであった。
 とりわけ感動したのは、いや紅葉の旅のくせに紅葉ではなくて、昨日八幡平で見たダケカンバ林、これがまた八甲田山に向かう途中で死ぬほど生えているのである。お次は、ブナ林だ。こちらも、なんでこんなに植えちゃったのかね、と思わず呆れるくらい若木がひしめき合っている。これは辛い。間引かなければ、全てのブナが共倒れしてしまいそうな勢いだ。

 「植えたんじゃなくて、生えてきたんだよ」と加くち山氏。
 「自生ですか」と私。
 「何も手入れしてないからね。生えっ放しなのよ」と肥後氏。

 ここは人工バイオマス資源とは無縁の世界だった。戦後の決意もへったくれもない。彼らは自ら生え続け、生まれ続け、皆細い姿ながら、陽を得ようと必死に天に伸び、水を養分を得ようと必死に根を張って、そして厳しい風に吹かれているのである。

 健気というか、何というか。その無心に存在する姿に圧倒されるというか。
 このみちのくのダケカンバ林にはやられっぱなしだ。八甲田山のブナ林にも心を打たれた。

 帰宅してから最も印象深く思い出すのは、(それは景観の美しさとは別にして)この貧相な、しかし健気であり、愛おしい林のことである。
 また会いたいものだ。何とかして会いたいものだ。(しかも次はぜひ雪の時期に)

 いや、私はこの林を育てる夢を見たのである。
 間引き、すべてを生かすのではなくて、幾つかのダケカンバとブナを殺し、しかしそれはあの森の駅の「巨木」とはまるで違う意味で、殺し、そうしてその命の記憶を以て、私たちの生活を豊かにする。この森を豊かにする。
 それが可能だろうか、どうして森の駅の巨木たちと違う意味になるだろうか、とずっと考えたのだった。

 恐らく、それはできるだろう。なぜならば・・ 私は樹々の1本1本をまるで、大戦で亡くなったひとりひとりの霊のように喩えてみたのである。彼らがその尊い命を以て、その命と引き換えに、今のこの平和な世界を、私たちの世界を築いてくれたように。私たちは、彼らのことを胸に生き、その記憶を共に生き、未来永劫決して忘れることはないように。

 私は森を育てる夢を見たのである。あのブナを、ダケカンバを、もっと豊かに太い幹にしてあげたいものだと夢想したのである。
 彼らが木質バイオマスとして、そして生まれ変わる未来のことを。





ダケカンバが終わるとブナ林が始まる

谷地湿原と黒森山

谷地温泉

谷地温泉は日本三秘湯

ブナの若木がたくさん どうしてこんなに生えてしまった

ブナだらけの壮観な眺め
加くち山氏は、「ブナの幼稚園だ」
肥後氏は、「地下の根はものすごいこといなってるだろうね」

走りながらブナを見る

綺麗だなぁ

カエデが混じってきた



ブナ林終了 今度は紅葉が

蔦沼も近い

蔦沼が眼下に見えてきた





蔦沼、蔦温泉に到着



 蔦温泉に到着すると、まず私(たち)を待っていたのは桂月の石碑である。
 大町桂月。北海道大雪山を初めとして、全国を旅して紀行文を書いた随筆家。彼は十和田市奥瀬蔦を終焉の地に選んだ。晩年をこの蔦温泉で過ごしたのである。

 これも思えば妙な話である。というのも、私は2年前に仕事を辞めた時、その時から全国を旅することになった。いわゆるこの旅ブログのきっかけの退職(プロフィールでクビになったと書いているが、あれは大げさに言っているだけで自分が辞めたかったのである)である。その際に、蔦温泉がある蔦沼の写真を見たのだった。
 失業中の私は毎日蔦沼の写真を見た。蔦沼だけではなかったが、屋久島と奥入瀬渓流と十二湖と出雲と熊野と伊勢とそれから十和田湖・・ 行きたいところの写真をノートに貼り付けて毎日見た。
 その写真中の一枚目、表紙の写真が蔦沼だった。二枚目は十和田湖だ。そして、ノート中の写真の場所は、この2年で大概出かけたが、一番メインの蔦沼・十和田湖に行くことは叶っていなかったのである。

 大町桂月が住んでいた地だなんて知らなかった。
 全国を歩いた桂月、観光地の美しさを知り抜いた彼が、最も美しいと認め、愛した場所がみちのくのここだとは・・
 
 「これが桂月が愛した蔦ですよ」

 加くち山氏が歩きながらポツリと呟く。
 桂月は十和田村長の求めにより、蔦温泉、奥入瀬、八甲田山などを含む十和田湖一帯を国立公園とするための請願書を起草した。
 アメリカの国立公園制度に影響を受け、国家が雄大な景勝地を管理することを検討し始めた時代だった。
 政府の役人が十和田湖の調査に訪れたのは、大正14年6月9日、桂月の死ぬ前日だったという。
 自分の庭のように愛し、この地を知り尽くした桂月は、案内役を引き受けていたが、叶うことなくこの世を去った。



 


これは桂月の石碑

蔦温泉は大町桂月が愛し、終焉の地としたところ

ゆかりの石碑がいろいろある

ちなみに蔦温泉道路の向かいに墓があったそうだが見逃してしまった

十和田湖や奥入瀬、八甲田山(十和田湖一帯)が国立公園に指定されたのも
桂月の推薦があってこそ




最後に蔦温泉の前で記念撮影


※次回は、蔦沼、奥入瀬渓流、白神山地十和田湖の紅葉の様子をお届けします。


✩出典・関連記事✩

汚染水浄化、仙台産ゼオライトが有望・・学会有志 (2011年4月7日読売)
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夏泊半島写真集
海洋中の二酸化炭素蓄積量(気象庁)
木質バイオマスのエネルギー利用
木質バイオマス利用推進の取り組み(林野庁)
「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」の請願文について