禅林街ってなんだろう? 続き①行の始まり





加藤酒店さんは禅林街の「枡形」に位置している。

「枡形」というのは、築城の際の兵法のひとつだ。門と門の間にあるL字型の小さな広場を言い、兵を集めたり、侵入した敵兵の動きを妨げる目的があるのだそうだ。




木造建築の昔ながらの酒屋、加藤酒店さん



弘前城にはこの「枡形」が幾つも見られる。
三の丸追手門南側、二の丸南内門、三の丸賀田(よした)御門跡、内北曲輪と本丸を結ぶ鷹丘橋、それから本丸南の枡形虎口の巨石を立てる石垣もそうだ。
禅林街は、弘前城の裏鬼門に当たる西南、風水的に重要な方角に形成された。
鬼門を守る弘前八幡宮をはじめとして、弘前における寺社仏閣は、文化的、政治的意味を孕んで、計画的に作られた。
弘前城と同じ枡形と土塁が入り口にあるのも頷けるというものだった。

私は加藤酒店さんを通り過ぎ、禅林街の赤門の前へとたどり着いた。
雨は降ったりやんだりを繰り返し、晴れる気配はない。




弘前公園案内図 枡形が門の至る所にある

桜の終わった弘前公園より 弘前城天守

禅林街赤門 下寺通りの入り口に当たる




私は弘前さくらまつりを見に来たのだった。
一日過ごすには時間が余る。それで、少し足を延ばすつもりで、軽い気持ちで禅林街散策を計画に入れたのだった。

が、ふらり風情のある寺を巡るには、雨は降り過ぎた。

禅林街散策のススメというパンフレット ―私はそれを大切に手にして、それを見ながら寺のひとつひとつを周っていた― は、もはや雨に濡れ、所々破れている。私が弘前駅に着いたとき、にこやかな笑顔で弁当を手渡してくれた少女が忍ばせてくれたものであった。
それで、私は少し哀しくなった。
郷土自慢の駅弁を売っていた彼女が自慢の品と一緒にパンフレットを袋に入れた・・ ちょうどその時― ある「間」があったのを私は見逃さなかった。あの時、確かに、少女には、禅林街に招く者を選択する余地があった。それが私には自らの計画が「導き」と重なったように思えて、殊更嬉しかったのである・・


下寺通り終いの耕春山宗徳寺で休憩を取った。「寺廻り」にはそぐわない、防水シェル型のレインウェアの上下を身に付けた。宗徳寺は一番撮りたかった寺のひとつだ。へこたれるわけにはいかなかった。
オレンジのゴアテックスに身を包むと、雨に負けない、という意志が染透るような思いがする。私はこれを旅の直前に小さな荷に詰めたのだ。いつかの京都旅行で、旅に浮かれて持ち逃して、吉野山の上千本も奥千本も見ることが叶わなかった、あの日の悔しさとともに思い出して。
経験は確実に私を強くしている。ゴアテックスから生まれる僅かな違いが、今の私には自らの鎧のように心強く感じられるのだった。


「長勝寺構え」と言うのだそうだ。
禅林街の地形は、戦うために何重にも配慮され、計算されて、創られた。




「長勝寺構え」の禅林街




弘前城の西南の抑えとして作られた禅林街は、もしも、城を攻められ、万が一でも陥落した際、ここで戦いを継続することが可能なように、あらゆる形勢を考慮し、緻密に配置されていた。

城山だ。敵の攻撃に備えて、土塁や城郭を築いた山のようだった。茂森山を削り、段丘続きの部分の西側に濠と土塁を築いた。西の楼門からの敵兵の侵入を難くした。
禅林街と茂森山との間には水掘りを、そして「枡形」を作り、東は崖上に土塁が巡らされた。背後の北と西は岩木川が蛇行している。

赤門から下寺通りを12寺、黒門から上寺通りを19寺が並んでいる。最後尾に将軍(藩主)が位置するために配置された太平山長勝寺がある。
また、1箇所だけ離れた33寺目の「観音山 普門院」(通称:山観)は明らかに、見張所ではないか。弘前城本丸から茂森山、そして現在の上寺通りの左手の高台に移転された津軽三十三観音巡礼の結願所山観だけが、城山のさらに小高い丘の上に建っているのだった。





「観音山 普門院」(通称:山観)




耕春山宗徳寺の本堂前に座り込んだ。

覇気を取り戻した身体と裏腹に、いや、だかこそなのか、心が穏やかになるのがよくわかった。通り過ぎたのは、赤門に足を踏み入れた時のほんの二人、肩を並べた恋人同士だけであった。一人、雨を見上げる。境内の樹木に、社に、雨筋が映っている。

鶯が鳴き始めた。静寂を破るように、唐突に、歌い始めた。


禅林街に林のように立ち並んだ寺の宗派がすべて曹洞宗だというのも、思えば暗示的な話だった。

禅宗のひとつ、「座禅」を行として重んじている曹洞宗は、こう告げている。

考えれば迷いが出る。感じれば惑わされる。

これらで物事を解決しようとすれば、どうしても、矛盾がある。正しいかどうか、いつも迷う。座禅は思考や感覚を超えた解決方法であり、これこそが行の世界である。
身体と、呼吸と、心を、整える。姿勢を正して、左右に、ぶれないで、座る。矛盾をあるがままに見る、現実と調和した、心安らぐ世界を与えられることだろう。

行の世界は、黙って、「真理を行う」ものである。



人生とは意味のないものに意味を与える過程だと思っている。元来無意味なものに、あれこれと価値を積み上げていく。

竜巻が3カ所同時発生したのはなぜか、まるでそれを解明する学者たちのように、私は自分の人生の意味をあれこれ考えていく。

なぜ、禅林街に導かれたのか。
なぜ、その時、桜は散り際だったのか。
なぜ、太陽は隠され、雨が降っていたのか。
どうして、その僅か4日前、ゴールデンウィークの初日の深夜に、高速バスの事故が起きたのか。

私の深夜高速バスの旅は、おかげで、命がけの思いで始めなければならなくなった・・ 
それほどまでに、禅林街になぜ行かなければならなかったというのか。

いや、禅林街ではなくて、弘前だった。
私は津軽藩の遺跡を見に行ったのだ。

なぜ、津軽為信と、2代目信枚はあれ程までに城の守備を固めなければならなかったのか。


一番大切なのは、なぜ、岩木山が見れなかったのか、と言うことだ。
私は雨など想定していない。晴れた空で岩木山を見たくて出かけたのに、今、宗徳寺の雨を見上げている。

あの雨の境内で、鶯の鳴き声を聴いている時、しかし私はそのことを悔いてはいなかった。決して。むしろ心を空にして、真実をまるで「行っていた」かのように解明して、穏やかな時を過ごしていたと思う。
無念さを噛みしめたのは、同じ頃に、耀く陽と、青い空の下の、山々を写していている者がいると知らされた時だ。誰かがその者の絵を褒め称えていた時だった。

相対化されることで左右される幸福は、そう見くびることはできない。その彼岸的な境地を得るために、先人たちがどれほどの苦労と努力を重ねて来たのか、私は津軽藩の偉業によって、思い知らされることになる。
岩木山を観ることができなかったのは、それが行の始まりだからだ。

新しい船出は、雨だった。
道筋は容易ではないらしいが、幾つものヒントを与えられた旅路ではあった。






その②に続きます^^





※出典


ザ・登城 弘前城

観音山普門院

アラ・ハバキの「道の奥」廻り弘前城下を巡る  その②

弘前市西茂森 禅林街寺院配置図

弘前市・禅林街・観光・歴史・見所




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