宮本武蔵の壊れたレリーズ。 ~もしくは、エゴノキの花が洗われた世界で~







 




  愛を乞うものは、必要以上にその愛が得られなかった場合、対象を殺してもいいという法律でもあるのかもしれない。
  三面記事の「殺人」ではなくて、魂の殺人のことである。
  もしくは、意にそぐわない人間や、気に食わない人間には、残虐な仕打ちをしなくてはならないという法律でも。
  後者のいわゆるセクシャルハラスメントや虐めで割り切れるものならば、こう気に病んだりしないものだが、自責の念が伴うからには、愛情が足りないということなのか。
  それでも、私は随分と愛情深い人間のつもりで生きていたのだった。

  先週、今週と、同じ時季の去年の記事を思い返して行動している。


(去年の記事
私とカメラとマクロレンズ』)



  人間、この愛しき、忌まわしき者。
  私の成長を促すドラマを阻むのは、いつでも人間たちだった。
  もちろん、彼らのおかげで成長することも多々ある。そうは思ってはみても、本来の私の愛の秩序に満ちた世界を、いつでも容易く崩壊させるのも、また彼らなのである。

  ここ数年の話だ。道に躓き続けていた私に、天啓の導きのように、カメラが与えられた。
  私は写真旅行と称して、その道に従い、がむしゃらに吸収し続けていた。
  ところが、古傷がぶり返すのであった。
  きっかけは社員旅行だ。7月に予定された2日の旅が、私に過去の記憶をフラッシュバックさせるのであった。









    
  友のいない旅ほど、敵だらけの者たちと出かける旅ほど、精神をすり減らすものはなかった。 それは楽しい、楽しくない以前の問題で、ましてや、彼らは、冒頭の法律を順守している。宮本武蔵が形無しだ。
  逃げ場を失い、サウンドバック状態に打たれ続けた彼は、二度とその道場に戻ることは出来なくなったという。

  最悪の事態、あの古傷が甦って、あの時と同じように自らの精神が追い詰められてしまったならば、私は二度とせっかく出会った(終の棲家にしようと考えていた)今の会社に戻ることはできなくなり、辞表を叩きつけるくらいのことはしかねないのであった。
  なぜ、そんな旅に出なくてはならないのか、そもそも私は旅をしないという選択もあった筈であった。


  もちろん、成長したかったから。

  人間として、少しでも。
  いや、当時はそんなことは考えていなかったかもしれない。
  99%は、多分、あの場所を愛していたから。愛の秩序に満ちた楽園にしたかったから。
  旅するのは、最善の選択であり、敵とではなく自分との戦いであった筈であった。

  今思うと、ただのエゴイズムで、訪れたのは、壊れた自分によって、壊された仲間たち。仲間と呼べない他人たち。
  それから愛する人たち。単純に迷惑を被った人たちを、山ほど輩出しただけであった。


   見事に敗北した者の、古傷に、フラッシュバックに、ただの社員旅行というおまぬけな設定に、死ぬほどの深刻な悩みに。
  馬鹿馬鹿しさと、気の違ったような独り言を抱えて、私は去年と同じ場所へ急ぐのだ。


  雨の日の、エゴノキの花を撮りたい。


  停滞してばかりで、止ったかと思われた自己の成長。そればかりか後退まで始めていると。苛立つ私を、慰め、諭してくれたのは、またしても写真だった。
  一昨年の写真と、今年の写真では、出来栄えがわずかに違う。
  例えば先週の記事、檜洞丸の写真を見比べて、私は随分と納得したものだ。
  継続は力なり。駄文とボツの山のような写真ばかりを撮り続けていたが、まんざら後ずさりはしていない。そう進んでもいないが、後退ではない、ほんの少し、道を進み続けているようであった。




  エゴノキの花が好きである。

  エゴノキという名前から、私はこの木とこの白い花を見ると、人間の醜さを連想するのであった。
  まるでアダムとイブが食べた禁断の果実のように、それは本来の秩序も世界をも乱すことが出来る、人間の悪しき一面を象徴した花のようであった。

 

  はらはらと舞い落ちるエゴノキの花もいいが、地に堕ちて、濡れた大地に溶けるように打ち捨てられた様も絵になる。
  白い花の終焉は、すべてが洗われたような錯覚をもたらしてくれるのだった。
  ただし、そんなイメージは撮れるはずもなく、私はべちょりと濡れた森に落ちたエゴノキの白い、汚れた花々をただ普通に撮るしか能がなかった。変わったところで、この葉の上に落ちた花、と言うものを撮ってみたが、それがどうした、という感想であった。
  木の上のエゴノキの花にはそう興味がなかった。落ち花の姿をイメージ通りにいつか撮ってみたいが、一年前の写真を、文章を繰り返して、見て、読んで、を何度繰り返せば辿りつくのか、正直想像もつかないのであった。









  私は、去年と同じルートを周った。公園にはいろんな散歩道があるが、思い出せる範囲内で、同じ道を行き、同じ被写体を撮った。少しでも成長の証が欲しくてたまらなかったのである。
 
  去年のラストは、電池切れ、であったことも忘れていない。あの時は、現時点での及第点が下った(そういう暗示を受けた)と記憶していた。
  今年は、去年と同じ道程の、どこで電池が切れるか、散歩道の最後の被写体である睡蓮の花までもつのかどうか、もしも電池が切れなかったら、私はまた、

  「よくやった」


  と、現時点での腕や頑張りを褒めてもらえたのだと信じることが出来そうだった。
  ところが、なんと、私は出かけに電池を充電したのである。そのため、時間が間に合わなくて、フルに充電できる前に、電池をカメラにセットしたのである。
  撮影旅行が終わるとすぐに、翌週に備えてカメラの手入れをしていた当時の私はもはやなく、出かけに慌てて支度して、電池の充電を忘れるという一点からも成長のドラマであるはずの写真旅行をなおざりに考えている自身が目に浮かぶようであった。
  これで及第点が取れたら、その方が奇跡だ。
  あとはどこで電池が切れるか、もしくは、切れないような撮り方、使い方をして、暗示的に言えばいくら本来の自分(実力)をカバーできる経験値を身に着けたのか、そちらの方が問われているような思いもしてくる。









  母親は、社員旅行に行きたくないなぁ、と愚痴った私を励ました。
 
  「でもあんた、若い子がたくさんいたのに、あんたがいいって。雇ってくれた会社なんだよ・・」

  「別に気を使わなくていいんだよ。誰とも話さなくてもいいんだよ。いつもと違う景色を見て、美味しいものを食べて、それだけで」



  私はふざけて、それから甘えて、こう聞いてみたものだ。
  じゃあ、帰ったら、ご褒美をくれるかと。

  「よく頑張ったね、偉い偉い、って言ってくれる?」

  「ぎゅっと抱きしめて、褒めてくれる?」


  「ああ、ああ、もちろん言ってあげるよ」と、「抱きしめてあげるよ」と母は真剣に頷くのであった。私は何だか、泣けてしまった。今は家事や私の世話までしてくれる母親だが、数年前にくも膜下出血で死にはぐっているのである。医師にもう助かりません、と言わしめた大病をしたのである。
  今は平凡な日々を送りながら、私の心に中には、これは最後の輝きなのだとどこかで信じている節があった。母はもう長くない、今は穏やかだが、ある日ふっと、そう遠くない未来に、またあの時のように倒れて、今度は二度と目を覚まさないことだろう。

  もしかしたら、母に褒めてもらうのは、いや甘えられ得るのはこれが最後かもしれない。

  よく考えたら、ごく幼い頃でさえ、褒めてもらったり、甘えたりした記憶がない。
  私は記憶を探りながら、これが最初で最後かもしれない、なんて考えているのであった。



  エゴノキの花が散っている。

  雨の中をぽとりぽとりと。森を、行けども行けども、花はどこにでも落ちていて、道案内をするかのように、点々と白く、濁りながら白く、私の道を照らしているのであった。










  電池はいつまでもつか。去年のヤマボウシは過ぎた。森の小路も過ぎた。民家園の野苺を撮ろうとして、今年は一つも生っていない。実どころか、野草自体がないことに気が付いた。


  残念だった。去年との差を比べたかったものだが。そう思って、しかし、その野苺が去年、私と人間との世界を決定的に決別させたことを思い返している。
  今年は野苺を見なくて、良かったのかもしれない。電池はいつまでもつか。よく頑張ったと暗示は与えられるか。褒めてくれると母は言った。よく頑張った、偉かったね。そう抱きしめて。


  母はいつまでもつか。
  それまでに私は成長できるか。残されて、一人で何でもなく生きていけるほどに。


  結末は意外な展開であった。

  電池が切れるでもなく、睡蓮まで経験値で撮り切れたわけでもなく。
  カメラが壊れたのであった。



  私は随分とぎょっとしたものである。
  レリーズを使っていたのに、押してもいないのに、勝手にシャッターを切る。
  しかも何度も、勝手に開放されているのであった。
  後になって、壊れたのはカメラではなく、レリーズの方だったと思い至るが、帰宅後の試し撮りでもついにどちらが原因かはっきりしなかった。多分カメラ「本体」ではなくて、「補助器具」のレリーズの方であるようだが、数回シャッターを切ると時々動くので、ケーブルが濡れてたまたま接触不良でも起こしたか、本当に故障なのか、未だ判明していない。
  レリーズ、補助器具というよりは、カメラがぶれないように、離れた場所からカメラを操作してくれる、まるで「遠隔起動装置」 や「遠隔操作盤」である彼が、押してもいないのに、カメラはシャッターを切り続ける。
  私は睡蓮の二つ手前の花、花菖蒲を撮っているところであった。
  レリーズや、シャッターは押しても動かない。なのに、時々カシャカシャとシャッターが切られ続ける。








   
  私はその時になって初めて、自身は雨具で完全防備をしていたくせに、カメラには一枚のハンカチさえも被せてあげていなかったことを思い出した。
  随分安物の、ちゃちな一眼レフカメラであったが、腐っても一眼、これでもよく頑張ってくれたものであった。私の成長のドラマは、このカメラと一緒に始まったのである。


  ついにいかれたか。


  私はカメラを抱きしめながら、雨の森を急いでいく。(そうだ帰るのだ)
  ごめんね、ごめんね。こんなに濡らしてごめんね。
  今まで、ずっとありがとう。


  ついに壊れたカメラを嘆くと同時に、どこか解放された思いで満たされている。
  まるでこの安物のカメラを私は自分自身であるかのように感じていたものであった。ずっと、もっといい機種に買い替えたかった。使えるうちは使わなきゃ、と母に諭されて我慢していたのであった。

  安い、性能の劣る機種なのに、そぐわない高価な、重いレンズを着けられて、山や深夜発のハードな旅にも付き合わされて、随分苦労かけたね。ごめんね。
  いたわるように、腕でカメラを包み込むように歩き、悪かった、と何度も声をかけ、そうして一服して、息を漏らすように煙を吐き出して、ああ、今日は号令はかからなかったと漠然と思い出す。
  電池の充電マークは、見れば半分も残っていて、なのにカメラは動かなくて、よくやったね、と褒めてくれる人も、いなく、私は間抜けにも、社員旅行のことをまた考え始めている。

  ああされたらこうしよう、こうなったらこう出よう、と戦略を練っているのであった。
  まるで宮本武蔵のように。

  ふと馬鹿馬鹿しさに囚われかけて、今度は軽く首を振る。
  いつかの記憶の、「悲しみよ、こんにちは」を、「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」に変えてやろうと、本気で思っているのである。

 
 



(2011年5月28日 徒然日記より)