泰山木咲く頃、紫陽花寺を巡る私と少女と猫の歌。





  ずいぶん長いこと頭をひねっていたのだが、書くことが見当たらない。
  私は本当に何にも事件がない一日でも、何だかんだでストーリーを作り出しては、文章にすることが出来ていたと自負している。今までの話だ。
あれをここまで。こんな物語にしたか。と、時には自分のまるで詐欺師ぶりに感心さえしたものだ。

  ところが、机に向かうこと3時間。
  頭が真っ白なので、とりあえず、ゲームをする。そのうちテレビを見る。女子高生のブロガーの記事が3万6千アクセスだと騒いでいる。
  ふむ。彼女はうっとりした表情で、目をきらきらと輝かし、言う。

「これからもみんなをハッピーにするブログを書いていきたい」

「もっともっと勉強していきたい」

  偉いものだ。誰もハッピーにするブログを書いてこなかったからアクセスも、ひとつの記事に対して、0なんて時もあるのだろうか。


  道に迷った、もしくは道を間違えたのではないかと疑った時は、とりあえず、現在地を把握する。
山歩きの基本を思い出して、周囲の景色から過去の記憶から方向、イメージ、持てるものを総動員して現在地を考えてみるが、私が今いる地形は尾根でも巻き道でもなければ、尾根から谷を結ぶ道でもなさそうだ。道を見失いかけて、疲れて、座り込んだのだろうくらいに考えていた自分の認識の甘さを思い知る。
  そうだ、はっきりと谷である。私は谷底に沿いながら、現在山を下っている最中である


  こういう時は、とりあえず、次に登り始めるまで、体を痛めないようにすることが大切である。慎重に下ろう。くれぐれも自棄腹になって、転げ落ちたりしないように。また、たとえ一緒に登っていた相棒から、着いてこないことを罵られて、こちらも自棄っぱちになって谷底の下流の果てに突き落とされそうになっても、ぐっと笑顔で堪えて、足を踏ん張り、上流に踏みとどまることである。
  馬鹿にすんじゃないわよ。ちょっと気合入れて頑張ればね、いくら今は谷にいたってね、ちょっっとね、この沢をツメればすぐに尾根なんだからね。あんたと同じ高さまで一気に戻っちゃうんだからね、しかももっと早く着いちゃうからね、その時は。
  くらいの気概は持って行こうではないか。

  威張れたものではない。


  あまりにも書くことがなかったので、1週間近くも前に思ったことを掘り返して、女子高生ブロガーのきらきらの微笑に対抗する。
  山頂目指して、ずいぶんいいペースではないか。若いしなぁ、サクサクと進むよね。
3万6千アクセスって、安い化粧品の使い方じゃないか。人をハッピーにするってね、化粧品でハッピーかよ。と、嫉妬も取り入れてみる。そのうち妄想も取り入れようと企んでいる。

  で、まだ妄想が出てこないので、今日鎌倉に行ったことを話そう。


  雨が降ったら鎌倉。
  ずっとそう考えていたので、紫陽花が咲いていようがいまいが、とりあえず鎌倉に向かうのだった。








   まずは北鎌倉で電車を降りて、明月院へ向かう。
  臨時改札口を通り越して、狭い一直線のホームを直進。ベンチでナップザックをおもむろに開けて、登山用の雨合羽を取り出すのであった。

  ゴアテックスのこれを着ると、傘がいらない。両手が開くので、写真を撮るには適している。で、私は色とりどりの傘の群れを追い越して、いい気になっているのである。

  お洒落な北鎌倉だってね、あなたたち楽しそうに歩いているけど、私はこれ撮りに来たんだから真剣なんだからね。と、胸元のカメラを触って、目を光らせる。本気度をアピールしているのか、誰もこちらを見る人もないのに、威風堂々と線路沿いを歩く。


  明月院に入場料を払って入る。「三脚預かってもらえませんか」ダメもとで聞いてみる。が、案の定断られるので、両手が開いていると豪語する割には重い荷を抱えて、明月院ブルーの紫陽花を撮る。かろうじて、花は咲いている。一昨年来た時より、花の時季は早くて、満開(紫陽花でも満開というのか)とは程遠い寺の景色を、撮る。撮る。撮る。
  雨がそのうち酷くなり、本格的に降り出してくる。午後には小降りになると聞いていたが、ますます降り出すとはますます運も尽きたように感じられてくるではないか。さすがに合羽だけでは、カメラも、荷も、ずぶ濡れになって無事が懸念されたので、傘を差す。小路の休憩所に避難する。


  このあずまやのような休憩所で、私は後で海蔵寺に向かう時に再開した、中学生の集団と乗り合わせるのだった。女子が3人、男子が4人、修学旅行か遠足のグループ行動なのか、同じ制服を着ている彼らは、一様に同じ寿司の仕出しのような弁当を食べていた。
「にゃん、にゃん、にゃにゃにゃん」
  と、二人の女子は楽しそうに歌っていたものだ。
  鎌倉の道を歩きながら、あの町は細い路地が交錯していて、別れたと思っても、また出くわすから何度もでも会ってしまったものだ。

  不思議なことに、私は初めて、彼らを見た時、同じ制服を着ているが、別のグループで、友達でもなんでもない、と想像した。

  二人の女子はベンチに横並びに座り、その正面にある4人掛けのテーブルの椅子に男子が座っている。で、もう一人の女子は、一人で立って、弁当を食べているのであった。
  ふたりの女子の横が開いていたので、私はよほど座りたかったが、前に一人立っているので、座れない。逆に座ってくれれば、あずまやの場所も広く感じられるのだが、彼女は座りもせず、場所を開けもせず、立ったまま、寿司を食べているのであった。それは、ビニールシートのせいかも知れなかった。3人は掛けられるベンチは雨で濡れていて、二人の女子はビニールを敷いて座っていた。そのビニールが足りないのだ。二人の分しか敷いていないのであった。

  ただし、私は座れるならばシートなど要らない。自分のハンカチでも敷いて座る。雨宿りの時間をお昼休憩に当ててしまおう、と思った私は、座るに座れなく、仕方なく、ベンチの前に一人立った少女の隣りで、持参の弁当を食べ始める。こちらも立ったままである。その間、ずっと、二人の女子は笑い合い、喋り倒して、テーブルの男子は黙々と食べるのみ、知らん顔なのである。


  しばらくして、それでも彼らはちょうど同じペースで食事を終えて、「間」を作り出した。
男の子の一人が、二人の女子を見やって、「食べ終わった?」と声をかける。「うん!」と笑顔の返事、そうして、立ってる少女を含めて7人はまた遠足?の続きを始めて、共にあずまやからいなくなるわけだが、これにはさすがの私も驚きを禁じ得なかった。
  彼らは連れだったのか。
  一人だけ少女を立たせて、平気で笑い合いながらお喋りをする二人の少女。目の前に一人の少女を立たせて、そ知らぬ顔で座って食事をする男子。いじめなのだろうか。一人の少女の顔を覗いてみたが、こちらはいじめとも思えぬ、何でもない顔をしていた。


  一言も言葉を発しない。何度も古刹の町で再会する。
  女子二人が先頭で歩き、猫の歌を歌ってはしゃいでいる。
  男子4人が後に続く。二人がまた笑う。
「〇〇(恐らく男子の誰かの名前)に抜かれちゃうよ~早く早く」
  また猫の歌。そうして、しんがりに、あの、立っていた女子が一人で歩いている。
  6人の後を何でもない顔をして、着いていくのであった。

  白いシャツに、紺のベストに、チェックのミニスカート。

  まだ世間を知らぬ、若葉のような初々しさを思わされる彼らの格好とは似ても似つかない、老成や達観という言葉を思い浮かべる。
  あんなに若いうちから、ハードな人生だなぁと私は感心してしまう。
楽しい猫の歌を、帰宅してからある少女は思い出すだろう。楽しい旅だったと、父親は母親に語りながら、お風呂に入って、ゆっくり休むだろう。
  しんがりを何でもない顔をして歩いている少女はどうだろうか。真っ直ぐに前を見て、下を向くでもなく、前を見て、連れの誰の目に入らなくても、一言も発することがなくても、真っ直ぐに歩いていたあの少女は、今日のことをどう思い出すのだろうか。



  海蔵寺に到着する。
  楽しそうな猫の歌は遠ざかった。







私はこの寺が好きである。
萩の時季に、夏に、何度か訪れている。北鎌倉に来るたびに寄るのは、最近ではこの海蔵寺と浄光明寺くらいだろうか。
ここでも紫陽花は早かったようだ。かろうじて、幾つかが染まりかけていたが、そう深くはない。
酷い降りに辟易して、合羽も用無しに傘を差す。三脚も、替えのレンズも、出番を虐げられている。


落ち込んでいる時、もしくは、誰か親しい相手との繋がりをより深く感じたい時、子猫や子犬の鳴き声を真似て互いに言いあう、というのはより効果的だと思われる。
言葉の、意味を超えて、もっとより根本的な、原始的なところで、存在を確かめ合うことが出来るような思いがするのだ。
そんな小難しいことではなくても、単純に、楽しい。嬉しい。本能的に幸せを感じる。

「にゃんにゃん、にゃん、にゃんにゃん・・」


ただの会話からではなくて、猫の歌から外された少女の過酷さを思っている。






  浄光明寺に着くころには、あれほど鬱陶しく思った雨ともついにお別れである。雨は止んだ。私は傘を仕舞って、三脚を取り出した。交換用のレンズも登場する。お気に入りの200mmのズームレンズだが、やっと登場した彼は、あまり嬉しそうではなかった。

  紫陽花があんまりないね。泰山木の花じゃつまんないね。光が足りないね。別に僕じゃなくても、良かったね。

  もっと早く、出してあげれば良かった。明月院ブルーの紫陽花を、撮りたかった、と訴えているように思われた。
 なだめすかせて、幾つかの花を撮り、後から後からくる参拝者に寺の坊主が元気よく挨拶をする声を聞いている。

「こんにちは」

  私が寺に着いたときも、彼は元気に言ってくれたものだった。「こんにちは」
  もぞもぞ返事した私だが、照れくさいほどに、嬉しく感じたものだった。連れでもないのに。入園料を払うでもないのに。
  私に挨拶をしてくれる人もいない場所もあるというのに。坊主には、私の存在は見えるらしい。

  ここでもまだ早い紫陽花。小さな、染まり切らぬ花弁をファインダーで追っている。若い坊主の彼は藍色の作務衣を着て、庭で働いている。寺の水溜りの水を、綿で吸い上げているのである。

「どう?取れた?」
「だいぶ水が減りましたよ。これでまた降ったら、意味ないですが」
「また降ったら困るわねぇ。降らないといいけどねぇ」
「まぁ、降ったらまた取ればいいですけどね」


  和尚の婦人といった物腰の年配の女性と話して、そうしてずっと水を吸い上げていた。
後になって、彼より見劣りするやはり作務衣の坊主が現れて、カメラを抱えた地元の拝観者と話をしていたものだ。

「晴れて良かったね。インターネットで見たよ」
「はい。今日は決行になりました」

  それで、私はちょっとがっかりしたのであった。
今夜、このお寺で、震災の追善読経と万灯の催しがあるとも知らず、何かこの寺に纏わる親しい、もしくは檀家たちの、連れ、が集まって、夜会でもするのかと、そんな心象を抱いたのである。
  坊主が挨拶したのはそのためか。勘違いされたか、もしくは喩え違っても今日の連れであってもいいようにと、念のためのものだったか。私が見えたわけではなかったようだ。






  水を真綿で吸い上げる作務衣はもう見えない。雨溜まりの残る寺の庭で、地味な泰山木の花を、撮り続けている。三脚の足が泥と雨水に濡れている。
   6人のうちの誰かをハッピーにすることが出来なかったから、少女は一人立っていたのか。
  それとも、少女の方こそが、6人を拒絶していたのか。
  雨合羽をザックに仕舞い、夜会に呼ばれぬ私は一人寺から去っていく。
  入れ違いに訪れたカメラを抱えた4人連れが、あら綺麗ねと褒めるのだ。紫陽花ではない。

「泰山木が綺麗に咲いて・・」






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