It's a beautiful world.  ~ブナの黄葉に彩られた鍋割山の道~

 
   
 どこから話し始めればよいのか。この山について話したいことはたくさんある。
 ひとりで、友人と、何度も登ったこと。本格的な山登りをした、初めての山であること。
 そして初めて、私が人生に失恋したことを、教えてくれた山であったこと。

 「すみません、鍋割山の山頂はまだ先でしょうか」
 少女に声をかけられた。息を切らしているようだ。
 下山を始めて、もう小1時間は歩いていた。まだまだ先は長そうだ。これから登るんじゃ大変だろうなぁ、と思ったが、この先も下るうちに何度も何度も、山頂を目指す人々に出会うのだった。もう秋だ。きっと日暮れも早いはずだ。もしかして山頂の鍋割山荘に泊まるのかな、とあとになって気が付いたが、そのときは彼らの様子に同情を禁じえなかった。
 「そうですね~ もうちょっとですよ」
 そうですね~を特に伸ばした。考えている風を装う。少女は察したのか、「はは・・ もうちょっとですね」と苦笑いをしてまた登って行った。少年と肩を並べて。 
 
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  この山がどうしてこんなにつらいのか。山頂でも、「こりゃつらい山だね」という山男たちの嘆きをずいぶんと耳にした。丹沢界隈でもそう高い山ではない。なのに、なぜ、若いころの私をあそこまで苦しめたのか。
 今になって冷静に理由を考えれば、まず、1272.5mという標高の割に、累計標高差が高い。コースにもよるだろうが、一般的なところでも1500mはあるのだった。そして、第二に、距離が長い。歩行時間は7時間近くに及ぶ。そして、第三に、二俣(登山コースの中間地点)から山頂までの一気の登りがある。約2キロで標高約800mを登る。これはあの大室山(犬越路から一気に550mを登る)のスケールよりも上手を行くのではないかと思うほどだ。

 小さなわりにはしんどい山であるのもうなずける。その割には、いつだって人気が高いのだ。
こちらの理由は、富士を望む山頂の眺望や、山頂の鍋割山荘の鍋焼きうどん、綺麗なトイレや、ブナ林や山頂の芝(寝転がると気持ちいい!)の素晴らしさや、登山コースも最近整備されてきたし、数え上げればきりがないだろう。が、若いころの私が惚れた理由は、沢野ひとしさんの山物語の影響だった。


 沢野ひとしさんは私が大好きな作家、椎名誠さんの友人で、彼らが学生時代に同居していたころの物語、「哀愁の町に霧が降るのだ」で初めて知った人である。沢野さんはのちに大手の会社を辞めてイラストレーター(または作家)一本で食べていくようになるのだが、当時から椎名さんのエッセーや物語には常に沢野さんが挿絵を描いていた。私はその脱力系の絵柄とどこか陰のあるユーモアに惹かれて、沢野さんのファンになった。椎名さんの物語の中で、また沢野さんはとても魅力的に描かれているのであった。(これは沢野さんによるところよりも椎名さんの人を愛する力によるものが大きいと思う)で私は沢野さんのエッセーも読むようになり、その中で、彼が愛した山が、かの鍋割山だったというわけだ。
 鍋割山に行きたい!
 その想いが日増しに強くなって、私は登る前から惚れてしまっていたのだ― 鍋割山への想いは募っていった。
当時は仕事も恋も何もかもうまくいかぬ自暴自得のとき、そんなつまらぬ日常の中で、彼への想いは私の逃避先となった。そこへ行けば人生が変わるように思われた。いや、そこまで深く考えていなかったかもしれない。でも、沢野さんや椎名さんたちのような友情や夢に満ちた、生活があるように思われたのは確かだった。体験したい。同じ思いを共有してみたい。

 ある雨の日の翌日、私は無謀にも単独で鍋割山へと向かった。山の好きな友人などいなかったし、(当時は山登りは若者には人気がなかった)沢野さんのように一人で登るのが粋なようにも思っていた。私が今でも雨の後に絶対に山へ行かないのはこの時の後遺症だ。
 そして、私はあっけなく、山に、そして人生に、失恋してしまった。

 当時、私が鍋割山に登って思ったのは、「山登りは過酷でしんどい」ということ。それは、逃避先でも夢の到来でも何でもなく、私の日常と全く変わらなかったという現実。
 それから、鍋割山が私に教えてくれたこと。山は、「私に対して、冷酷だ」という事実だった。
 私は二重に打ち負かされた。それでもしばらくは、山に登っていた。まるで、失恋した男を諦めきれずに、しつこく思い続けている、または健気に思っているふりをして自分を慰めているように。こんなことなんでもないの。私はそれでもあなたが好きよ。
 しかし、心の中は哀しみと絶望でいっぱいだった。確かに、山の山頂で私はわずか以上の達成感を得られたと思う。だけどそれだけだった。彼が与えてくれたのはそれだけだった。

 登れるだろうか? 私は何度も自問自答した。
 最近仕事の忙しさから夜のマラソンもしていない。体力が落ちてきている。1年前なら、あの鍋割山に登った20年前よりも体力があると自負できた。けれど今は言い切れない。もう若くはない。あの頃よりダメに違いない。
 それでも、ずっと避けてきた鍋割山に登ってみたかった。今なら登れそうだという矛盾した想いを抱えている。
 私はあの頃よりも経験を積んだ。山のことも知った。傷つかない登り方を身につけたと思う。試してみたかった。
 20年経って、何を思うのか、試してみたくなったのだ。私はあの山に登れるだろうか。
 山は、人生は、まだ私に対して冷酷だろうか。

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 私は慎重にコースを選んだ。二俣までは軽いウォーキングと変わらない。その後の急登りが問題だ。後沢乗越から山頂に着くと、ぐるりまわって戻るには塔ノ岳方面の小丸へと向かう。この小丸は鍋割山山頂よりも標高が高い。何度か登った際、山頂の後に、またしても尾根沿いの登りが続いて、私はずいぶん参ったものだった。なので、今回は、二俣から訓練所尾根のコースを行くことにした。ここから行けば、先に小丸にたどり着く。そして、それから尾根沿いに下るようにして鍋割山へ向かって、下山しよう。
 後沢乗越の登山コースはまた段差が多いのだ。丸太の階段が延々と続く。登山というよりは、階段登りを続けているようで、あれは厳しい。訓練所尾根は行ったことがないが、私はたぶん自然のままの山道だろうと想像した。平成9年に閉鎖された県立登山訓練所の訓練コースだったというこの道はかつて多くの登山者を迎え、登山技術や知識、体力向上に利用されたという。人工の山道ではありえない。そして、今は人けもなく、たぶん登りやすいはずだ。
 
 二俣までのウォーキングは体力馴らしにちょうど良かった。おまけに天候もいい具合に曇っていた。体力に自信がない時は、晴天でない方が救われる。また鍋割山の唯一のいいところは、始発のバスの時間が早いことだ。(始発バスで出かけても登山開始は8時や9時過ぎになるという山はざらである)
 私は一番で出かけて、7時過ぎには登り始めていた。あの頃よりも体力はない。経験と知恵と細やかな努力で補うしかない。
 もう二度と私は失恋するわけにはいかなかった。

 だが私は小丸経由の訓練所尾根入口を見つけられずに焦ってしまう。最初の障害だった。つい先ほど、二俣の傍で、登山訓練所を創設した山の恩人尾関広先生の石碑にお祈りしてきたばかりだというのになさけない。二俣の駐車場(ここまでは車で来られる)からすぐの山側にコースが始まるはずなのだが、見ると塔ノ岳へ向かうコースしかないのだった。あとは小さな沢を渡っての鍋割山への道、こちらは私が避けたい後沢乗越経由と標識に書かれてある。後続の者たちが私をぬかしてそちらへと向かっていく中、私は地図を抱えて途方に暮れた。訓練所尾根は小丸から塔ノ岳へと続いている。ならば、塔ノ岳へのコースに行けばたどり着くだろうか。

 推定でしかなかった。よほど大勢の登山者に続いて後沢乗越のコースを選ぼうかと考えた。何のことはない、地図には小さな沢が複数描かれていたのでわかりづらかったのだ、駐車場の山側ではなく、沢を渡ってすぐに後沢乗越から分岐する山側の登山道入り口があったのだが、その時の私は沢を渡ってしまえば、標識通り後沢乗越のコースだと思い込んでいる。
 想像で標識のない道を選ぶか、人の流れに続いて選びたくない道を選ぶか。良く考えろ。地図を良く見ろ。経験を思い起こせ。私は答えが見つかるまで、人々に抜かれるままにしておいた。そして、ふと後沢乗越コースを選んで人々の後に続いていく。道が変わる時は必ず標識が現れる。道しるべのない時は、たとえ完全に間違っていると思われる道でも、選んだ道を進み続けるしかないのだ。鍋割山へ。その文字を頼りに、沢を渡ると、すぐに、「小丸経由鍋割山」の標識を見つけた。
 私は歓喜した。登山者たちが一瞬見やって、または見向きもせずに、「鍋割山へ」と書かれた後沢乗越コースへ行く中、ひとり小さな登山道へと進んでいく。尾関先生に感謝した。たかが登山道にと可笑しかったが、この最初の始まりこそが重要だった。私と鍋割山の物語の中では特に。

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 訓練所尾根コースは案の定、自然のままの登山道だった。丸太の階段も、石段もない。おかげで道を探すのに苦労したほどだった。しばらく歩くと、小丸まで2000mの標識があった。またしばらく行くと、小丸まで1500mが。そして、次に1000mの標識が現れた。500mごとに標識を見ていると、次は小丸まで500mの標識があると思い込んでしまう。ところが、いくら登っても、500mは告げられなかった。私が見落としただけかもしれないが、もしもわざとならば粋な計らいだ。おかげで私は、まだまだ500m以上はあると覚悟していた矢先に、山頂(小丸)の展望を目にすることができたのだから。
 私は小丸まで2時間2キロの行程を思って、2時間のうちに、空っぽの頭でいろんなことを考えられると思っていた。この機会に、いろいろ整理したいことがあった。人生について思う。そのための鍋割山のはずだった。ところが、実際は、まるでけもの道の登山道の中、前後左右を見回して、誰かが歩いた後を見つけるのに精いっぱいだった。 
 道中、目を引いたのが、切り株だ。初めはクロマツ林(と聞いていたが、実際は赤松に見える、赤い幹の松が多かった)を、松ぼっくりを踏みながら歩いていった。次に、ヒノキ林、それからカエデ類と、林を形成する木々が変わっていっても、切り株は点在していた。山から片側の根や両側の根を持ち上げて、踊るような格好のもの、ひょうきんに伸びあがるようなもの、見ると一つずつ形が違って面白い。病のためか、日当たりを考えて、間引き伐採されたのものか、 そのうち私はこの切り株が墓石のように見えてきてしまうのだった。
 木の亡骸なのだと思えば当たり前だが、そうではなくて、死んだものを葬った導(しるべ)のように見えてきた。20年前はこんなに切り株があっただろうか。登山コースが違うからか。20年前の記憶をまさぐる思いから、私は今と昔の感覚が入り乱れた。当時の私の世界が今いるこの山で、そしてその頃の私はその中の一本の木であったかのように思えて来た。私はあまりにも弱い木だったから、周りの木々を伐採しないと生き残れなかったのではないか。そう思うと、山の斜面に浮かび上がる墓石の切り株の一つ一つが、失った友や恋人の姿に重なってくる。マーシー、絵美ちゃん、むら。私はを彼女たちを思い描いて、それから今度は天高く伸びる松の木やヒノキを見上げるのだった。

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 あれは私が未熟だったから、壊れてしまったのは私のせいだからとずっと負い目を感じていた。何度も思い返して、自分を責めた。けれども、私という山にはそれしか道がなかったのかもしない。そうするのが必然だった、ふとそう思うと、自分の弱さに対する救いとように思えた。開き直りではなくて、あれは出来なかった過去ではない。私が選んだ過去なのだと。だが、もしも今ならば、私の山はもっと多くの陽を集めて、木々にお日様を当てることが出来る。伐採なんてしなくていいんだ。たとえ、当時も今も、日当たりの環境は同じであっても、私自身が以前のように陽を必要としない。周りの木々に分けてあげられるはずだ。そして、木々の病だって耐えられるはずだ。

 いつしか私は、鍋割山の登山道を行きながら、この道と私の歩んできた人生とを重ねていた。時々切り株に手を当てて、声をかけた。足元の花々、アザミやセンブリ、リンドウ、小さな白い花に黄色の花、名もなき花々が私の道を飾ってくれていた。落葉を探す。色付いた葉は僅かで、去年の落葉樹の葉がほとんどだった。まだブナの葉は見付けられない。
 私はブナの落葉を見つける、つまりブナの木を見つけた頃が標高1000を越えたころだと見当をつけていた。「小丸まで500m」の標識がもう決して現れないこともうすうす感じていた。ブナは現れない。カエデの葉は時々黄色く染まっているが、まだまだ青々と茂っている。
 私という山(私の人生)はまったく私を感動させてくれそうもなかった。無事登りきること、小さな秋を見つけること、この二つが今日の目的であったのに、やっぱり可愛げのないことよ。
 それでも、冷酷ではない。

 20年前との差に驚くほど、山はたやすかった。不思議と私は体力を消耗していなかった。水はついに鍋割山頂まで500mlのペットボトル一本さえ必要としなかった。多少、最近の運動不足から足を気だるく感じたくらいで、息切れもしなければ、疲労もない。先日登った大山よりも楽に感じた程であった。
 ブナの葉を見つけた頃、拍子抜けした思いは喜びに変わった。足元のアザミや花々はいっそう数を増し、まるで花畑の中を歩いているようだった。私の道はこんなにも飾られていたのか。そして、ブナが見え始めた頃、切り株も背の高い木々も姿を潜め、ふと見上げれば届くほどの木々が道なりに立っていた。ああ、そういうことかと。たとえ日当たりの悪い山であっても、上まで登れば、関係ないのだな。もう日光の奪い合いはないのだ。奪い合いのないほど、高く登れば、もう切り株なんて必要ないんだ。私はそんなふうに納得して、その思いをすっぽりと気持ちに当てはめて、それからまた可笑しくなって笑う。今度は立ち枯れなんて言わないでくれよ・・・

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 花の道はとうに明るくなっている。天空の視界が開けて、霧のなかに聳える丹沢の山々が見渡せていた。私の視界と同じくらいの高さだった。小丸は近いな、そう思いながら道を行き、ふと見上げると、いや、見上げても、ブナがない。私は思わず花道を駆け上がった。
 緑の草の中、花が咲き乱れ、その先に眼下の眺望が見えるではないか。
 わーっと叫びたい思いだった。あいにく、富士は見えそうもない。空と町の景色は霧で繋がっていた。それでも登ったのだ。紅葉の秋も探せなかった。松ぼっくりと栗と名も無き小さな花しか撮れていない。それでも、過酷とも思うこともなく、私は登りきったのだ。山を満喫しながら。
 
 小丸から尾根伝いに今度は鍋割山山頂を目指した。彼の山はここよりも低い。もう大丈夫だ。
 私は20年前の体験からずいぶんこの山のハードルをあげていたものだ。丹沢の他の山を登って来た経験が生かされたのだろうか。ああこれから丹沢で一番つらく感じた山は塔ノ岳にしよう。いや、でもまだ下りがある。鍋割山の長い道のりと急な傾斜の下りの道は決して軽んじてはいけない。
 気を引き締めて、鍋割山を目指した私を向かい入れたのは、しかしブナの黄葉だった。

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 小丸から鍋割山への尾根沿いにはブナ林が続いていて、赤く染まることのないブナたちがほんのりと、黄色く色付いては立ち並んでいるのだった。
 初めは、何となく黄色いじゃないか、少しは秋らしいな、と思いながら写真を撮っていた私も、次第に目を見張った。尾根沿いに続くブナたちは、行けども、行けども、僅かに、ほんの僅かに世界を染めては、私を包み込むのだった。
 その、なんと美しいことよ。
 
 私は間抜けに口を開けて感嘆した。It's Beautiful World.
 
 頭に浮かんだらもう離れなくて、私は次々に現れるブナを撮りながら、顔をくしゃくしゃにした。
 こんなに世界は綺麗だったか。
 
 涙が止まらないのだった。
 どうして、気が付かなかったのだ。どうして、20年前には気が付かなかったのだ。
 あの頃の私には見せてくれなかったのか。今の私にだから、この美しき姿を晒してくれるのか。
 
 It's Beautiful World.
 こんなに世界は綺麗だったか。
 
 鍋割山に辿り着くまで、この美しき世界は続くのだった。時々、登山者とすれ違うと、私は泣き顔を見られたくなくて、ファインダーを覗いた。
 「こんにちは」
 それでも彼らは私に声をかけて通り過ぎていく。
 途中ブナたちはカエデに変わって行ったが、私には同じことだった。今、世界は美しかった。

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 私はこの美しき姿を持って、私を受け入れてくれた山に感謝した。
 そうだ、今度から。
  山の下の、現実の世界をこそ冷酷に感じた時は、ここへ来よう。
 そうすれば、すべてを耐えられるような思いがする。
 鍋割山の山頂に寝転んで空を見た。
 登山者たちの話し声や笑い声が聞こえてくる。
 鍋割うどんの湯気に、風に揺れるリンドウに。
 今霧は晴れて、青空がいっぱいに広がっていた。
 ああ、なんて。
 世界は美しい。