可愛いミーちゃんの話。その3。



 大切な人が亡くなったとしても。彼らは。 

 記憶の中で永遠に生き続ける。


 って言いますよね。


 でもつまり、裏を返せば、記憶の中にしか存在しない、記憶の中でしか会えないということで。どんなに生き返ってほしいとか、もう一度だけでいい、一目会いたいと願ったとしても、幽霊でも出ない限りは。


 記憶の中でしか、彼らに会えませんよね。

 

 「すずめの戸締まり」という映画を見たときに、そんな死者の記憶とどう向き合うか、みたいなことを考えさせられたのですけれど、やっぱりどうもがいても、


 彼らは記憶の中にしか存在しない。


 映画はそんな現実を突き付けてきて、とても切ないものでした。


 ところがですよ。




 (写真は散歩風景です)


 私最近ボケてきまして、ええ・・・まだ健忘症にはなっていませんが、日々衰えを感じています。

 で、毎日、毎日、可愛いミーちゃんの鳴き声を思い出しては懐かしんでいるのですが・・

 ミーちゃんというのは1月に亡くなった愛猫です。

 もう記憶の中にしかミーちゃんがいないので、記憶を蘇らせては逢瀬を重ねているとでもいうのか、記憶遊びをしているとでもいうのか・・・

 とにかく、ミーちゃんに会いたい時は、なるべくリアルに思い出すようにしているんですが。

 今日のことですよ。

 それが、ふと、薄まっていることに気がついたんですね。




 記憶が薄まっている!


 鳴き声を思い出そうとしたら、なんとなく前より思い出しにくくて。

 まだ4ヶ月しか立っていないから、まさか・・ と思ったんですけれど、ほら、歳をとって劣化しているから、ボケもあるから、それで? と思い当たる節もありまして。


 それで、ちょっと疑問を感じたんです。





 記憶の中にしか存在しない死者は、記憶が薄まってしまったらどうなるんでしょう。

 今はまだそんなことあり得ないことだ。自分と共にミーちゃんは生き続けると思えますけれど、つまり、記憶が薄まることなんてないと。

 でも、わかりませんよね。

 どんどん歳をとって、じょじょに記憶が薄まっていく。

 病気で、記憶を失うというのはまだ想像がつきます。それはあり得るし、仕方がないことだと思う。しかし、この記憶が薄まっていく、というのが、なんとなく想像するとキツイなぁ、と思うんですよね。それは、より残酷だ。


 緩慢なる死というのか。

 二度目の死に直面する。
 もしくは、二度目の死を受け入れざるを得ない、とでもいうのか。


 想像すると、やっぱりキツイ現実だなぁ、と思います。

 



 願わくば、ミーちゃんの記憶がいつまでもいつまでも薄れませんように。

 そして、永遠に私の中にリアルに生き続けてくれますように。 





 可愛いミーちゃん、生まれてきてくれて、ありがとうね。
 そして、ママを見つけてくれて、ありがとう。

 また今度生まれてきた時は、またママを見つけてね。
 ママもミーちゃんを必ず見つけれるからね。



 絶対忘れない、という決意・・・でもそれは絶対ではないもの、をしながら、ミーちゃんに語りかけます。

 愛しているよ、また会おうね。

 記憶の中で会いながら、現実でまた会うことを約束する。



 そんなどうにもならない現実。死者との付き合いはそれだけでも残酷なのに、まだ記憶を奪われるかもしれない苦しみが待っているとは・・・


 また再び、ミーちゃんを失うことになるかもしれないとは!


 (奪われると言いましたが、誰のせいでもない、自分の劣化のせいです・・)




 

 生きていくことは本当に、自分を失っていく過程ですよね。

 
 なんて、しんみり思った今日でした。


 まぁ、どうせもうすぐ死ぬんだから、(不健康なので長生きしないかな、と・・)そんなしんみりしなくてもいいか。ミーちゃんにもすぐ会えますよね、苦笑
 なんて思っては見るものの・・・





 ではでは、今日も最後まで読んでいただきどうもありがとうございます。

 素敵な週末を過ごされますよう。

 願いを込めて。







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