「君の名は。」? 失われた記憶を取り戻す旅に出る。【ネタバレ「君の名は。」感想】



「君の名は。」を見た。




想定外のトランプ大統領が誕生することとなり、昨日、オバマ政権がTPP批准を断念したと米紙が報じた。
私の感動は計りがたい。「君の名は。」で、言えば、宇宙からの隕石が愛する人の町に落ちる現実を回避した、といったところである。
思えばここ数年、全国の神仏を祈りに出かけたものである。日本という国が消滅するあの恐ろしい経済協定だけはどうしても避けたかった。そのためならば、伊勢神宮、出雲大社、熊野三山に、高野山に、橿原神宮。富士山に岩手山に金華山。山頂の神々は特に効き目があるように感じられた。なぜならば、山神は、それが起源だからだ。

そう思うのは私だけではない。「君の名は。」のブームを見ればわかる。あの映画のクライマックスには山頂の奥宮が出てくる。物語の前提では、隕石の落ちた小さな町(糸守町)は、数万年?に一度隕石が落ちる設定で、だから町の真ん中には、隕石が落ちた後らしい、丸い形の美しい隕石湖があり、クライマックスの広い山頂にも、やはり隕石が落ちた後らしい、丸い窪みがある。そして、その丸い隕石後の痕のど真ん中に、消滅した町の神社のご神体が祀られているのである。日本人の忘れかけた記憶の原風景を、異次元との入り口に持ってきたあたりはさすがた。(俗語で言えば)「タイムスリップ」をして、町が消滅する直前に山頂のご神体に駆けつけた主人公、そこで逢う魔が時(誰そ彼時の意、誰そ彼は、あなたは誰?もしくは相手から見て私は◯◯だ、というこの映画の一番伝えたい核心部分)・・の逢う魔が時に「過去の」女主人公に邂逅する。
山頂の神が「入り口」だということは誰もが知っている事実なのだと私は思う。(もしかしたら忘れているだけかもしれないが)

トランプさんと私の話は置いておいて、「君の名は。」の感想を少し書きたいと思う。
序盤は、思春期の女の子が異性や老婆やおばさんと入れ替わるというステレオタイプの物語か、と思ってげんなりした。とくに、若い男女が入れ替わるというジャンルはネタになりやすく、体の異変に戸惑うシーンをしつこく見せて、人気を取ろうとする。またあれかなぁ、なんでこんなアニメが人気なのかな、と戸惑ったものの、続きを見ているうちに、次第に物語に引き込まれていった。最後は大満足をして帰ってきた。
見た後に気がついたのは、かなり解釈が分かれる映画だということだった。
不思議なことに、監督が脚本で何度もこれは夢だとしつこく言っているにもかかわらず、映画を見た人たちは、主人公の少年と少女が入れ替わったことを「現実」だと考える。1年半の時間軸のズレに気付かなかったのはおかしい、お互いに電話しなかったのはおかしい、と首をかしげる。次に、現実が前提での「パラレルワールド説」。昔からの監督のファンは、この説を支持していて、最後は別の世界で儚く別れて終わった方がよかったのに、と訴えていた。(バカなことを・・ハッピーエンドだから意味があった映画だというのに!)それらの「現実説」に、それから「夢説」というのもあった。監督の言う通り、あれは夢での邂逅で、その夢を主人公は絵をして描いて(主人公は美しい湖のある消滅した町の絵を執拗に描くのである)形にさせたのだ、そこに意味があったのだ、というもの。後半は正しいようだが、夢なら主人公の友達にまでに影響を及ぼしているのは妙である。最後に、主人公と女主人公は一人の人間で、輪廻転生の存在である、という説もあった。一人の人間、というところは納得するが、現実という前提がやはり、監督の意志と沿っていない。

で、私の説は。監督のいう夢とは、仮想現実のことだと私は思っている。「現実説」の現実が実は「夢」であり、「夢説」の夢が実は「現実」なのである。
つまりこんな感じ。この世界は、マトリックスのようなもので、私たちは「現実」という夢を見て生活している。だから主人公は夢の中の(仮想現実の中で生活する)実在である。本体は別にある。どこにあるのか?誰かなのか?がポイントだ。どこにあるのか、誰なのか分からない(というより私たちが忘れている記憶の)その本体は、(仮想現実の私たちにもわかりやすいように)もうひとつの仮想現実を生み出して、その設定の中で、「東京の男の子に生まれ変わりたい=夢の化身に会いたい!」と叫ぶ。物語は本体(女主人公)と仮想現実の化身(男主人公)のリアルと夢と記憶が交錯して進んでいく。分裂したもとは同じ人間が、恋愛という強い想いの形を借りて、再びめぐり逢おうとするのである。その執着こそが、男主人公に「夢の絵」を執拗に描かせる。まるで私たちが、思い描いたユートピア(理想や愛)の世界を本物にするために、懸命な努力するかのように。

だから「君の名は。」という物語は、夢(現実)の絵をついに完成させて、それによって現実(夢)を変えたことに最大の意味があったと思うわけだ。彼はついに、「誰そ彼」の名前を知ることができた。彼の現実を変えることができた。隕石を回避して本体の世界を守った。マトリックスの主人公は、本体に試された。愛する人(本体)の町に彗星が落ちるという悲惨な現実を変えられたら合格。変えられなかったらまた次の輪廻転生の際にチャレンジ御免だ。私たちは何度も何度も生まれ変わり、本体に会うためだけに宇宙を浮遊する記憶の存在なんではないだろうか。いやいや、語弊がある。(物語ではそう言いたいのではないか、というに留めておこう)

余談だが、岩手県のホープ?宮沢賢治なんて、やはり執拗に夢の絵を描いた作家なのではないかと思っている。そして彼は、死ぬ前に「他そ彼」に邂逅できたのではないかなぁ、とか。
変人扱いの宮沢賢治に、君の名は。の主人公。あの男の子も偉大なことをしたというのに先行きは暗そうだ。友達と比べて就職戦線はうまくいかず、まだ一つも内定が取れていない。「温かい記憶を取り戻せるような町を作りたい・・」とかなんとか面接の際に理想を語ると、かたっぱしから落とされてしまう。
それでも、そんな仮想空間での不幸は屁でもないことではあるが。なにせ、「他そ彼」(お前は誰だ?!)の正体をついに手に入れて、一つの完全体になったのだから。

それにしても、「君の名は。」。並々ならぬセンスを感じる。日本人の忘れかけた記憶の原風景を、異次元?との入り口に持ってきたあたりはさすがだ。自分を取り戻すには、「そこ」を思い出せばいい。(本体を取り戻すには=夢を叶えて現実を変えるには)
レッツトライ。あなたも明日から、山に登りましょう、笑

他に言い残したことはないかな、うん、とにかく思ったわけだ、TPPを回避できそうな今、私の夢は叶い、ああ、「君の名は。」だなぁ、と。あのハッピーエンドだ、まさに。仮想現実が軌道を変えてくれたのである。
もちろん、一人の力であるはずがない。あの映画のように、糸守町という世界の現実を変えるために、多くのものたちが戦い続けたことを私は知っている。
その執拗な夢の絵が、ついに完成しただけの話である。



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そして、山神ツアー?
いや、いつもの登山記。
今週は気仙郡、住田町の愛染山(あいぜんざん)に登ってきた。
山頂には祠があり、山神の石碑があった。日本人の高い精神性には驚かされる。大昔から、山の上の「入り口」を祀っていたというのだから。

今回は愛猫のキーちゃんを連れて登ってきた。ビデオとかもろもろフェイスブックにあげたので、よかったら友達になってくださいませ。







山神の写真はこちら。





祈っている私。





6月あたりがいいかもしれない。シャクナゲが群生する山頂はとても素晴らしい眺めでした。ぜひあなたもお出かけくださいませ!

では、また!