文明という灯台守 〜宮古市本州最東端魹ケ埼灯台に行ってみた〜 



本州最東端、とういうことで、何かと取り上げられることが多い魹ケ埼(トドヶ崎)灯台。有名な割にまるで聞き覚えのない名前だが、(トドガサキってどこよ?的な・・)お隣の宮古市にあるという。意外と近い。また、三連休の日曜日に、年に二回の内部一般公開が行われるというので、それは貴重だ、と見に出かけてきた。

今日はその貴重な魹ケ埼灯台、そして帰りに同じく宮古市の月山、ついでに宮古市の「まるで極楽浄土のごとし」の浄土ヶ浜、という宮古市巡りが面白かったので、ご紹介します。


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陸中海岸国立公園の観光の拠点となる岩手県宮古市は、他の沿岸部同様、東日本大震災で甚大な被害を受けた。魹ケ埼灯台はその最東端の姉吉集落の最果てに立っている灯台である。



魹ケ埼灯台は、姉吉集落の最東端のキャンプ場、姉吉キャンプ場からあるいて4キロほど先に立っている。灯台巡りを決行する方々(マニアともいう)の間では、魹ケ埼は難関、と称されているらしい。アクセスの不便さの上に、熊の出る森を4キロ歩かないとたどり着けない。これでは無人になるわけである。
平成8年までは宮古市の職員が交代で来て仕事をしていた。50年前までは灯台守とその家族が暮らしていた。姉吉集落は東日本大震災以前に、明治と昭和に2度も津波で全壊した集落なので、その岬の最果てに暮らすというのはどれほど恐ろしいことだろう。
コンビニも学校も下水もない。いつ津波が来るかわからない。それでも航路標識に全てを捧げる。家族の安らぎ・・とは真逆の生活、魹ケ埼の灯台守家族。今のお気楽な時代からは想像がつかないが、昔はそうやって、海を守っていてくれた貴重な家族の方々がいて、またその魹ケ埼他灯台守の奥さんの手記から生まれた「喜びも苦しみも幾歳月」という映画が日本中で大ヒット。日本の岬の景色の美しさと、海を守る家族の喜びと苦しみに、日本中が涙した。うん、現代でそんな映画が流行るとは想像もつかない。「おいら岬の〜灯台守は〜」という若山彰さんの主題歌のメロディなら、若い方も聞いたことくらいはあるかもしれないが。


※アクセス等、下記に詳しく載っています。


現在は魹ケ埼灯台は釜石海上保安部が管理している。また一般人の木村さんという方が、壊れそうな丸太の橋を修理したり、観光の方々のための標識をつけたり、トイレを掃除したりしてくれている。魹ケ埼と同じように、全国の喜びも苦しみも幾歳月的な灯台は、海上保安部と一部の一般人に丸投げ状態なんだろうなぁ。・・なんて、そうじゃないかもしれないが、最近の物騒な海洋(進出する国等・・)のニュースを聞いているとしみじみと思ったりする。お気楽な国民に変って、面倒を見てくれているものの象徴のようでありがたいというかなんというか。合掌。


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一般公開は10時からだったが、なぜかいつも迷わない道に迷って、千鶏漁港にたどり着いた。今日は4人で向かったので(いつもは一人)、おしゃべりに花が咲きすぎたと見える。天気は朝から小雨が降っていたが、漁港から見た海の景色は、意外や、雲の雰囲気も神秘的でそう悪くはないようだ。

姉吉キャンプ場の車の多さにまず驚いた。いつもは2、3台しか停まっていない。そのうち1台はいつも魹ケ埼で釣りをしている佐々木さんのものである。つまりそれ以外は一人か二人いればいい方なのである。それが今日は駐車場いっぱいに車車・・後からバスもやってきた。さすが年に2回の貴重な一般公開だ。ふと、子供連れの若い主婦の方から声をかけられる。

「この子の靴は運動靴と長靴どちらがいいでしょうか」と女性。
「・・・そうですねぇ」としばし考え込んで私、「すみません〜!靴と長靴どっちがいいと思います?」と同伴の3人に丸投げ。
わらわらと集まって、「急坂は最初だけなんですよ、あとはずっと緩やかな道だから、長靴でいいと思いますよ」と伊藤さん。
小さな子供も長靴を両手ににこりと笑う。女性によると、私たちの格好が本格的だったから訪ねた、とのことだった。そうか、そうか。一般公開の日に一般人以上に見えたということだろうか?ちゃんと答えられなかったくせにこの一件に気を良くして、姉吉キャンプ場から、いざ、喜びも苦しみも幾歳月・・の魹ケ埼灯台に向けてスタートする。


浮きが中央の木に引っかかっている





姉吉キャンプ場から海方面に向かうと、左手すぐにトイレと灯台へ向かう遊歩道の入口がある。以前は入口に立派な標識があったが、今は前述の木村さんの手作り?か、シンプルなものになった。登りは初めだけ、あとは緩やかな下り道が岬まで続く。登り始めてすぐに、木の枝高くを見上げると大震災の時に流された浮きと魚網が枝に引っかかっている。こんなところまで波が来たんだなぁ。


真ん中に見えているのがウサギ岩 耳が片方しかない




雨が降ったり止んだりの中、遊歩道をどんどん進む。ちなみに天気のいい日はこんな感じの気持ちのいい道。



本場水沢の南部鉄で作ったという熊鈴を響かせて歩く。音色がきれい。自称「ダチョウ倶楽部」という同伴の3人の一人、高橋さんから頂いた。どうもありがとうございます。




アカマツ、ミズナラ、イヌシデ、サンショウ・・右手にリアス式海岸の岸壁が見えてくると、そろそろ森を抜けて、白亜の魹ケ埼灯台が現れる。まずは横の東屋で3人と私、やっぱりこの日もいた魹ケ埼の釣り人佐々木さんとで釣り談義。それから、そろそろと灯台に登り始める。
ちなみにこの東屋で佐々木さんがある日寝ていた時のこと、震災後のお話だ、寝ている佐々木さんの後ろ・・灯台の石垣の門の方から子供達の声がした。「ついた、ついた!」と3、4人でわらわらとやって来る足音、彼らは東屋の方までかけてきて、木の階段をバタバタと上がってきた。うるさいなぁ、と思った佐々木さん、顔を上げずに寝ていたら、後ろから背中を思い切り蹴飛ばされたそうだ。驚いて振り向くと、そこには誰もいなかったという。





佐々木さんが蹴飛ばされたベンチ


いつもは空いていない灯台の入り口を入ると壁に灯台の年表がずらりと貼ってあり、その奥には4等フレネルレンズやレンズ回転機械、燈台で使用する電球、などが展示してあった。
数量限定のじぉ(浄土ヶ浜)バッチをいただき、灯台のしおりに本州最東端魹ケ埼にやってきた証のスタンプを押す。(二種類あり)









ちなみに、魹ケ埼灯台は明治35年から明かりを灯し続けているそうだ。東北最長の34メートル、3等大型フレネルレンズ、明るさは53万カンデラ、光の届く距離38キロメートル。
昭和20年に戦争の被害を受けて壊れたが、5年の月日をかけて新しく作り直した。今の灯台は昭和25年から立っている。初代の灯台の時と変わらないのは、入り口の(あのさっき子供の霊がやってきた)石垣の門で、それだけは明治の時代のままだ。


明治から唯一変わらない門

岩場の下に穴がありザッパ船で一周できる

魹ケ埼はよく釣れるらしい カレイや・・・
(すみません、魚の名前忘れてしまった)


少し薄暗い灯台の階段を登り始めると、ちゃんと1合目、2合目、と紙が貼ってあった。窓から灯台下の景色を眺める。階段には段数も書いてあった。30メートルほどなので、あっという間だったが、なかなか面白い体験だった。ずっと登りたいと思っていたのだ。













一番上まで行くと、頭上には3等大型フレネルレンズと電球、それを支える水銀(レンズは水銀に浮かべてある)の四角い容器があった。また、大きな地震が来ても容器が倒れないように、交互にずれる仕組みの三段ほどの機械がしっかりと水銀を支えていた。よくできているものである。東日本大震災の時も、魹ケ埼灯台は殆ど被害を受けなかったそうだ。






海上保安部の職員さんと案内してくれた佐々木さんと記念撮影。「写真を一緒に撮っていただけますか?」と聞くと、「ではせっかくだからどうぞ」と帽子を貸してくれた。「敬礼は左手です」とのこと。海上保安官になりきって敬礼。





残念ながら視界はあまり良くないが、太平洋に向かう240度ほどの景色を見て、灯台内部も見れたし大満足。これからも、いつまでも、海のしるべ(航路標識)として、海のみんなの安全のために、頑張って欲しいと思う。私たちのために・・と書いて、ああ、私もやっぱり丸投げだ。ごめんなさい。喜びも苦しみも幾歳月。無人の灯台守、白亜の灯台くん、海上保安部さん。いつもありがとうございます。









灯台を降りると、俄然雨の降りが激しくなっていた。待ってくれていた3人に申し訳なかった。ごめんなさい。急いで帰ることに。佐々木さんから以前松茸を見たというスポットを教えてもらいながら、皆で姉吉キャンプ場に戻ってくる。最後に高橋さん斎藤さん佐々木さんとで記念撮影。


灯台巡りをしている方の車があった


キャンプ場で、暖かいコーヒー、ラーメン、おにぎりなどなど頂いた。キャンプセット準備万端。自然の中で食べるととてもおいしい。皆さん、こちらもどうもありがとうございます。何から何まですみませんでした。








それにしても、明治、昭和、平成と3度までも津波に襲われた姉吉集落。明治、昭和の2度の津波で殆どの村人を亡くした村は、この痛みを忘れないようにと、石に教訓を残したそうだ。海抜60メートルの地点に石碑を建ててこう記した。高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな。
海抜60メートルなんて、まさか津波は来ないだろうと思うところである。だが、姉吉地区の人々はこの石碑の教えを守って家を建てなかった。おかげで東日本大震災での建物被害は一件もなし。被害は最小限で済んだのである。
最後に通りすがりに石碑を見た。平成23年3月11日、東日本大震災の津波到達地点の二つ目の石碑は、漁港から800メートル上の一つ目の石碑の、わずか70メートル手前に立っていた。






ギリギリだったんだなぁ。


昔の賢人たちは、今も私たちを守ってくれている。




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長くなってしまった。最後に月山と浄土ヶ浜を紹介します。




姉吉キャンプ場を後にして、月山に向かう。今日は太平洋がよく見えないが、今日もやはりいい眺め。宮古市街、早池峰山、浄土ヶ浜がよく見えている。記念撮影して次は浄土ヶ浜へ。






途中、月山の森で、美しい光芒を見た。もっと綺麗だったが、カメラの準備のタイミングが悪くて、これが限界。光のシャワー、美しい森だった。






ちなみに、天気がいいときの月山からの太平洋の景色はこちら。肉眼で見るともっと綺麗で、思わず泣きそうになる。月山からの景色は今のところ近隣で一番大好きだ。





そして最後に浄土ヶ浜、こちらは若者が多くて驚いた。東北屈指のデートスポットらしい。若い男女がたくさん。ちょうど1日前から海開きだったそうだ。

白鳥のボートがかわいい。岩礁に佇むうみねこ達もかわいい。






日出島 

最後に僅かに日が差して、岩の間から日出島が浮かび上がり、綺麗だった。




最後に記念撮影。浄土ヶ浜来たぞ〜



また今度ゆっくり是非来たい。

(せっかくの2大スポットなのに、ざっくりすぎてごめんなさい)






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