建築美と瓦礫の山と牛タンの私たち。




【旧石巻セントハリスト正教会堂を見に行ってきた】

 思い切り白い柱が傾き、建物自体が湾曲している。1880年の建築、日本最古の貴重な木造教会堂と聞くだけに痛々しい。

 旧石巻ハリストス正教会教会堂を見に行ってきた。解体直前の一般公開をしているとwebで知って、自分の目で実物を見てみたいと思った。


旧石巻ハリストス正教会教会堂 3月中の解体を待つ 2014年3月1日撮影
旧石巻ハリストス正教会教会堂 2008年8月撮影 画像はウィキペディアからお借りしました


 旧石巻ハリストス正教会堂は旧北上川の中瀬に建っている。石巻市の観光の象徴的存在である石ノ森萬画館(通称・マンガッタン)のすぐ隣だ。元は別の場所にあった。石巻市千石町。私が今住んでいるホテルの傍である。
 1978年、宮城県沖地震で被災した。石巻市の所有となった。それを機に現在の中瀬に移転、復元された。
 2011年、今度は東日本大震災で被災した。その後ビニールシートに覆われ、姿を隠す。先月22日、約3年ぶりに公開された。
 石巻市は昨年11月に正教会堂の再度の移転、復元を決めたばかりだ。津波被害を後世に伝える役割もあると判断した。2度の震災を耐え抜いた別の意味で貴重な、日本最古の木造教会堂。解体にならなくて良かった。
 石巻市は2014年3月中の解体と、2014年中の復元工事を目指しているという。なお、移転先は未定。奇跡の教会堂が今度お目見えする場所は、一体どこになることか。



【牛たんを食べる】

 その前に、仙台牛タンを石巻市で食べたお話。唐突だが、私は肉があまり好きではない。豚までは許せる。人間が生きるために定められた、殺していい生き物の分類を、何とか、妥当であると許容できる。が、牛になると、正直複雑なのである。牛を神聖視する国もある。牛の目がつぶらすぎる。それを思うと美味しく頂けない。いつも罪悪感を感じる。ソーセージやハンバーグなら原型がわからないからまだいい。が、焼肉、ステーキになると、見た目がきつい。歯ごたえ、肉の食感がきつい。そんな私が牛たんを食べたというお話。


 不思議なことに、私は牛タンが出てくる直前まで、「牛タン食べたい!」と思っていた。「牛タン」が牛の肉という認識が抜け落ちていた。こっちに来てから、有名な地元料理の牛タンを食べていない、仙台牛タン食べたと言って皆に自慢したい、と浅はかに思っていた。で、実物を食べて、妙にしみじみとしてしまった。自分が舌を抜かれたような気分だ。これは痛いだろうな、いや、でも死んでから抜かれたんだろうから痛くはないか。などと味とは別のことばかりに思いが行く。食感も複雑だった。めちゃくちゃ美味しかっただけに、罪も重いような気分になった。ちなみにどう美味しいのかというと、なぜ舌なのに? と驚くくらいに脂がのっていて、柔らかい。東京で食べていた牛タンとは、まるで違う食べ物だと思ったくらいだ。


 で、伺ったのはこちら。石巻駅から徒歩5分ほどのきら天きら亭さん。

 ・きら天きら亭

きら天きら亭さんの店内 日々変わる本日のメニュー 

音楽CDがいっぱい

 きら天きら亭さんは、店内に入ると、BGMとは呼べないほど大きな音で音楽がかかっている。並んだCDを見て、ふと若い頃通った「ウィスキーリバー」(※こんな店)というバーを思い出した。内装は全く違うが、あの店みたいに、好きな音楽をリクエストしたら大音量で鳴らしてくれそうな雰囲気だ。



まずはコーラ

お通し 冷奴かと思ったら豆腐が暖かくて美味しい

ヤリイカのお刺身

じゃがバター&ソーセージ おいもがホクホク 

出たー 牛タン定食 1450円也


 お料理の方は、期待していなかっただけに美味しく感じられた。特にお味噌汁の大きな長ネギが良かったなぁ。
 牛タンは前述の通り、肉厚で柔らかくて脂がのっていてめちゃくちゃ美味しい。

 「宮城県の牛なんですか?」と店の方に聞いたところ、「仙台と同じ肉です」とのお答えが。仙台からこの辺りはみんな同じところから仕入れているのだそう。
 それ以上は突っ込めなかった。そもそも仙台牛タンは、仙台牛を使うのではなく、アメリカ産の輸入牛を使う方が生来の伝統だという。このお値段と脂の乗り具合からすると、恐らく輸入牛だろう。そう思うと、ちょっとはましだ。距離がある分、親しみが遠のく感じがする。私は酪農家には絶対なれない。自分が育てた牛を食用にできないだろうから。

 また、お店の方に、(お腹いっぱいになって食べきれなかったので)ご飯を持ち帰ってもいいか、と頼んだところ、ラップにくるんで、きちんと容器にパックして持たせてくれた。親切&にこやかな対応で好感度大だ。牛タンは複雑だったが、大満足の食事会となった。




こちらが複雑だった仙台牛タン(おそらくどこかの国からの輸入牛)

きら天きら亭さんはこの看板を目印にどうぞ



 ・きら天きら亭さんの場所はこちらです。




 【島写真館さんで東日本大震災の本を借りる】

 さて、お休みの土曜日。通勤経路にある島写真館さんというフォトスタジオに寄って、写真を印刷した。デジカメプリント、というやつである。
 どうぜ旧石巻ハリストス正教会に行くなら、その真横のマンガッタンにも寄ろう、渡そう渡そうと思って渡せていなかったマンガッタンのスタッフの方たちの写真をお届けしよう、と思ったのだ。(プリントした写真をちょうだいねと言われていたのだ)
 
 その島写真館さんのご主人兼カメラマンの方(60代位の女性の方)と、カメラと写真の話で盛り上がった。初対面でも共通言語があると、すぐ友達になれるからいいものだ。
 彼女はたまたま写真館に嫁いでから、店や東京で修行をして腕を磨いてきたのだという。「女が撮るのかよ」と驚かれたこともあった、とお話してくれた。今の時代ではない、30年も40年も昔のことだ。偏見も大きかったそうだ。
 男と女は、全く平等ではない。主人より2割くらい腕を上げて、それでやっと対等だった、と当時を振り返ってため息を吐く。何だか耳が痛い。こちらは今も昔も変わらない。女性が社会で男性と一緒にやっていくには、確かに男性より腕を上げないと、人並みにさえ扱われない。彼女と違って、未だに男性以下の腕の私はどうしたものか。機材もイマイチだしなぁ。(このあたりの感想は、現在の職場の仕事と、カメラの腕の話が自分の中でもごっちゃになっている)
 すると、島写真館のご主人は、大丈夫よ、と腕を叩いて見せるのだ。

 「女性ならでは、の視点の写真が必ず撮れるから」

 自分なりに腕を磨いて、女性ならではの仕事をすればいいのだ、というのであった。

 その島写真館のご主人(島婦人)が、私に東日本大震災の写真集を3冊ほど貸してくれた。彼女も被災した本人だ。店も機材もパソコンもおじゃんになった。あの地震で写真の大切さにあらためて気がついたのだそうだ。島写真館で代々記念写真を撮っている家の方々は、彼女の無事を確認すると、よかった、よかった、と口々に喜んで、そしてこう訊ねたという。
 
 「島さん、私たち震災の後ね、何を一番に探したと思う?」

 彼らが探したのは島写真館の写真だった。まず探したのは、写真。瓦礫と泥の中から写真を拾い集めた。

 「写真の力って、すごい強いんだよ」と島婦人は静かな調子で、しかし力を込めて、語るのだった。だから出来るなら、出来る限りのことはしてあげたいじゃない、と晴れ着の帯の位置や模様を直し、口角を持ち上げて、日々フォトショップと格闘している。彼女はご主人の意思を引き継いで、これからも島写真館でどこかのご家族の節目節目の写真を撮り続けていくのだそうだ。予約は30年後までいっぱい。私が大きくなったら成人式の写真を撮ってね、と小さなお子さんにまで頼まれている。今日もこれから卒業式を撮りに行くのだそうだ。

 私は彼女から借りた3冊の写真集を抱えて帰った。そのひとつの航空写真。中瀬には、無残な姿の、それでも生き残った、旧石巻ハリストス正教会堂が、小さく写っていた。



 【ハリストス教会堂は十字架に日本式円堂を付けた斬新な形だった】

 さて、ハリストス正教会堂は、旧石巻と頭に付くだけに、新石巻ハリストス正教会堂がある。宮城県沖地震の後作られた教会堂だ。まずはこちらを見に行った。
 松と住宅に挟まれて写真が撮りづらい。それはいいとしても、旧教会堂と比べるとさすがに新しいというか、建築美も威厳もない。入口なんて(普通の住宅の)サッシのようだった。正統キリスト教の看板も(これも被災したあとなのか)錆びていて痛々しい。



こちらが旧会堂を石巻市に渡して、旧会堂跡地に新しく作った第2代の教会堂

第2代も看板もこうだが・・


第1代の看板はこんな (倒れてるじゃん・・)


 と、思ったら、まだましだった。中瀬の旧会堂の看板は無残に倒れていた。あらら。移築、復元、といっても、ハッピーエンドというわけでもなさそうだ。私は解体というのは部分的なもので、ほぼそのまま、大きなトラックとかトレーラーとか何かそういう(歴史的建造物専用の)移動手段で運ぶものかと思っていた。だが、これだけ損傷が激しいと、認識が甘かったと思わざるを得ない。解体したあと無事なのか、心配になる。修復も大規模になり難しそうではないか。

 という懸念が第一印象だが、やはり本物(旧教会堂)は違う。ぱっと見は第2代と変わらないのに、何という存在感。細部の建築美。これは中も見たかったなぁ、立ち入り禁止というのが残念だ。

 ちなみに倒れていた看板(案内板)によると、ハリストス正教とは、ギリシャ正教または東方教会と呼ばれるキリスト教の一派とのこと。教会堂が建設されたのは明治13年、ロシア人宣教師ニコライが東京に教会堂を建設した明治24年より、10年以上も前のことだった。



ちなみに正教会堂の平面図はこんな感じ
十字架の形に、日本式の八角形の円堂をくっ付けたような斬新な構造だ



 「この教会堂は、木造2階建・総瓦葺(そうかわらぶき)で、軒先瓦には十字架を入れたものがあり、東京で製造されたものといわれる。(現在の瓦は、復元の際に全て石巻で新しく製造したものである。)平面は十字架形をし、正面に八角形の塔をつけ加えたような突出部がある。これは、ピザンチン式ドーム工法の様式を、日本式の円堂(八角形をした建物)の手法で表現したもので、1階がポーチ、2階は至聖所(しせいじょ)となっている。至聖所を支える円柱は、礎石の上に載せられ、吹き放ちの三間が弧の緩いアーチでむすばれており、これとほぼ同じ曲率で窓の上部、正面入口の上部意匠が統一されている。この教会堂は、明治初期の西欧文化を率先して受け入れた内陸への玄関口としての石巻の、記念碑的な建築物といえる。(石巻市教育委員会)」 


 へぇーそうか。形が十字架だったのか。それに日本式の八角形の円堂をくっ付けた。当時はさぞや斬新だったことだろう。繊細、と感じたのは、アーチの曲率を統一した意匠にするという拘わりから来ていたのか。
 昔の建築はすごいなぁ。今のプレハブ建築みたいなどれも同じ作りの構造とは全く違うんだな、と感心しきり。

 震災で流されないで本当に良かった。移築・復元も難しそうだけど、是非できる限り昔のままの姿で、きちんと建ててあげて欲しいと思う。



大きく破損したが流失を免れた旧石巻ハリストス正教会教会堂
通称、聖使徒イオアン聖堂

白い壁面が破壊され、ところどころ木材が剥き出しに


十字架を横から見たところ
入口から浸水したせいか後方の壁が大きく湾曲している 木造なのによく無事だったことだ


中を撮りたかったが望遠でも難しい

昭和55年石巻市指定文化財に指定された

石碑の後ろに唯一流されずに残った桜の木が1本立っている

美しい建造物 島婦人じゃないが、当時、出来る限りのことをしたんだろうなぁ

このへん痛々しい

ここも痛々しいが 十字架が無事なのは奇跡的

前から引いて見たところ
ぜひお亡くなりになった方々の意思を引き継いで、祈りの第3代を建ててあげて欲しい

歪曲した十字架の下の先端部

後ろから見たところ


 建築美はいいな、とか、それでも神はいるのだろうか、とか。いろいろ感じることはあったが、解体前の旧石巻ハリストス正教会教会堂を、自分の目で見ることが出来て良かった。とりあえずすっきりした。前回マンガッタンに来た時は、教会の存在に全く気が付かなかった。最後にきちんと見れて良かった。
 解体前の公開は3月いっぱいなので、西洋風建築と日本の伝統が相まった貴重な木造教会建築を見たい方は、ぜひ今月中に石巻へどうぞ。
 そして、この祈りの場所がこれからも続きますように!



【石巻散歩】

 十字架の教会堂を見終わったらちょうど2時だった。マンガッタンの仕掛け時計の前に人々が集まってくる。





人々を楽しませてくれる石巻の石ノ森萬画館

また仕掛け時計を見てしまった


 島写真館でプリントした写真を渡し、警備員さんやフランソワーズたちに挨拶しておいとました。振り返ると、萬画館と教会堂が並んでいる様が見える。出来ることなら、教会堂はこの場所に復元されるといいのに、と思う。まぁ、そうはいかないのかもしれないけれど。

 





 さて、中洲にかかる389号線(女川街道)を石巻方面に戻ると、すぐ左手に石巻まちなか復興マルシェが見えてくる。

 




 ここもいろんな物産品を売っていて面白かった。喫茶店や海鮮丼が食べられる食堂もある。レンタサイクルは1日使っても無料だ。旅行に来た際はちょっと立ち寄るといいと思う。

 注文した定食を食べるスペースの一角で、震災の写真展をやっていた。水没した中瀬の写真を見て感慨に浸る。(今行ってきたばかりだけに・・) 島写真館さんで借りた写真集と同じように、教会堂や萬画館が小さく写っていた。





入口の上には海斗でお馴染みの水木一郎氏や遠藤氏のサインが

こちらが無料のレンタサイクル 事務所に一言声をかければ使用していい
私も今度使ってみようと思う

石巻駅に向かう途中の陶器屋さんのビル
こちらもなかなかの建築美だったが、後ろが痛々しい姿だった



【東日本大震災の写真を見る】


 さて、家に帰って、東日本大震災の写真を見る。島写真館で借りてきたものだ。朝日新聞社と三陸河北新報社の報道写真集。震災当時に報道された災害の記録も詳細に乗っている。島婦人ではないが、いや、これは言葉を失う。報道写真家たちが携帯電話も通じない中で、衛星電話を頼みの綱に、現地に行って撮って来た渾身の一枚だ。

 「撮影していると住民ににらまれた。でも、今撮っている写真はきっと紙面に掲載される。それを見れば、国も黙ってはいない。自衛隊や消防もすぐにくる。そう自分に言い聞かせた」

 

やはり東日本大震災の最大の地獄は、津波によって起こされた原発事故だった

朝日新聞社の報道の記録をまとめた「東日本大震災」
記事を読んで当時を振り返った 忘れかけていたことが昨日のことのように思い出される

3月13日岩手県釜石市 避難所の病院でメッセージボードに見入る人たち


 心に残った写真を幾つか紹介したくなり、アイフォンで撮らせていただいた。
 上の写真は、メッセージボードを見入る人の目が印象的。影になっているようだが、必死の、まるで祈りを込めるような目が僅かに光に映っている。



3月12日宮城県南三陸町 津波が運んだ瓦礫が建物を覆う


 こちらは、この世の地獄、という言葉が浮かんでくる。


3月13日女川町 津波に押し流されたJR石巻線の車両


 すごい。おもちゃみたいに倒れている。哀しくなった。いつも見ている石巻線の電車が・・



3月13日巨人踏みつぶしたように跡形もなく壊滅した女川町


 「巨人が踏みつぶしたように跡形もなく壊滅した宮城県女川町の中心部」というキャプションも胸が痛かった。一瞬でみんな消えてしまった。



左・3月16日宮城県南三陸町 右・3月25日宮城県七ケ浜町


 雪の中を、泥の中を、行方不明者を捜索し続ける自衛隊員。
 近年、これほど自衛隊員を頼りになると、誇らしいと思ったことはなかった。

震災直後、岩手県、宮城県、福島県と続いて、政府に自衛隊の派遣を要請した。


原発事故報道を追うドキュメントもある
誰だったか、今回の原発事故で誰も死んでいないとか言ってたのは


 原発事故のドキュメントも当時をまざまざと思い出し、手に汗を握る。
 (そして今も収束していない!)



3月11日宮城県名取市 民家を一瞬で飲み込んでいく津波


 こちらは、大津波が家を、集落を飲み込む瞬間の一枚。凄まじい。このあと、あの並んでいる木もなぎ倒されたのだろうか。
 私はハリストス正教会堂が奇跡的に流されずに残ったのは、周りに緑が茂っていたことも大きいと思っている。だから上の写真でも、ポツポツと禿山に並んでいるような僅かな樹木たちが、懸命に波を食い止めているように見えて仕方がないのだ。

 下の3枚は空撮写真。震災前と震災後を見比べたものだ。2枚並んだ写真の下が震災後で、女川町と長面・北上町は4月5日に、石巻中心部は6月15日に撮られている。

 印象的なのが一番最後の長面・北上町、延々と広がる肥沃な田んぼが、水没して消えてなくなっている。何とも胸が痛む。



女川町中心部

石巻市中心部 遠景

石巻市 長面・北上町十三浜周辺 緑の田んぼが水没

こちらは岩手県(右上)と宮城県(他3枚)
左上下2枚(上は気仙沼市・下は石巻門脇小)は津波と火災のダブルパンチに襲われた

左・岩手県山田町 右・宮城県名取市 安否確認を伝える張り紙がぎっしりと 


 下の写真は瓦礫の中を通勤する高校生。日常と非日常が相まってなんともたまらない気持ちになる。




3月30日宮城県山元町 この景色の中を普通に生活している様子がたまらない 


 こちらは朝日新聞社の報道写真集の最後の1枚。



震災に耐え抜いた桜が花を咲かせた 4月11日福島県いわき市




 写真集を見て、あやうく忘れかけていた震災当時のことをまざまざと思い出した。また、震源地の近さから、女川原発は良く無事だったな、とあらためて思っては、背筋がぞっとした。もしメルトダウンしていたら、軽くチェルノブイリを超えてるところだ。東京オリンピックなんて夢のまた夢だろう。日本も東京も東北電力に救われたな。逆に福島は生贄にされたんだな。酷い話だ。この世の地獄の光景を忘れずに見続ければいい。今年もそろそろ3.11を迎える。どこで過ごすか。何を思って過ごすか。何を願おうか。とりあえず、カメラは持っとけ。牛肉は食うな。イルカもやめとけ。石巻にはマクドナルドが(近くに)なくて良かった。神はいるのか。そんなことをひとりごちながら、石巻の夜は今日も更けていく。




✩出典✩

宮城)石巻の正教会堂、解体して移築へ





【東日本大震災】日本人被災者のマナーの良さに世界が驚愕





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