秋の紅葉決戦・護国寺編 ~猫とお墓と和解論~




 護国寺駅より徒歩1分、老舗の和菓子屋、郡林堂の豆大福が美味しいという。創業は大正5年、吉川英治や三島由紀夫、松本清張・・ 多くの文豪が愛したというその写真を見つけて、ぜひとも食したくなった。

 ついでに護国寺の紅葉でもみようではないか。

 ところで、郡林堂の定休日は日曜日なのである。サービス業は土日休むはずがないと思い込んでいる私は、いそいそと、豆大福を夢見て、電車に飛び乗った。

 郡林堂の定休日は調べないくせに、護国寺のことは予習した。
 1681年、徳川綱吉が創建、周囲は門前町として栄え、音羽通りは江戸時代には有数の繁華街だった。
 お玉の方と呼ばれた母昌院のために建てたのである。現在の玉の輿という言葉は、八百屋の生まれから将軍家に嫁いだお玉の方から生まれた。
 本堂は国の重要文化財に指定されている。月光殿、絹本著色尊勝曼荼羅図、多くの文化財を有する。震災や戦災でも焼けることなく生き残った。
 大隈重信、山田顕義、梅健次郎、山縣有朋・・多くの偉人の墓がある。


 郡林堂の定休日は調べないくせに、梅健次郎の日本民法和解論と大隈重信や山縣有朋の墓の写真は調べた。和解論は10行読んで眠くなり、政治家の墓は造形だけを確認して、恐らく敷地も大きいだろうからすぐに見つけられるだろうと安心して眠りについた。

 安心するポイントがどうも違うようだ。本当は紅葉の染まり具合を一番心配していいはずなのだった。今年まだ見ていない紅葉を見たくて見たくて、というよりは写真に撮りたくて、たまらなかったはずだが、もしも染まっていなかったら・・ と思えば恐ろしいので、とにかく豆大福と偉人の墓に要点をすり替えるのである。

 ここ数年、赤々と染まる前にどす黒く変色する、もしくは干からびて葉を落としていく、無情な紅葉ばかりを目にしていた。







 

 これ以上胸を突かれないために、巧妙に退けられた紅葉決戦。地下鉄から飛び出せば、護国寺の仁王門がそびえている。なかなか通り抜けずに、その四角い境内の景色を探っている。仄かに色付いている樹木を見つけて息を漏らした。

 黄葉に染まるけやき、薄赤いイロハモミジ、青空。仁王門への階段にはまどろむ猫。本堂へ進む度に木々の色付きは深くなり、大隈重信の墓前の銀杏は見事に黄葉を輝かせていた。
 安堵感。次第に胸を弾ませて、東京散歩を楽しみ始めた。















 思ったより染まっている、とはいえ、黄葉はまだしも、やはり楓の紅葉は微妙に厳しい。逆光にして陽に透かすと、どうにか赤く撮れるのである。順光だと赤味が足りない。くすんでいる。また、ところどころ赤いが、全体は染まりきっていない、という木々も多かった。
 広角からマクロレンズに切り替えて、赤い部分を切り取ろうと試みるが、護国寺のいろはもみじは樹高が高くて、背景から抜くことも前後の暈けを作ることもままならなかった。私は身をのけぞらして、木々を見上げ、あちらこちらにフォーカスする。その度に、絵にならないことに気がついて、シャッターを押せなくなる。本来、先に構図を決めて構えるところだろう。けれど癖なのだった。ファインダーを覗いて、心に適う絵を探しているのだった。

 右手の景色に標準を合わせて、カメラを下ろす。今度は左手に標準を合わせて、またカメラを下ろす。最近は一眼レフカメラよりも、軽量のコンパクトデジタルカメラやスマートフォンで撮ることが多くなっていた。ぶらりと写真散歩に出かけるのも久しぶりだ。すぐに腰が痛くなり、ヘタってしまった。

 時刻はちょうど正午過ぎ、昼食を取りながら休憩しようと、近場の飲食店を検索する。グルメ情報のウェブサイトが弾きだした四川料理屋はすぐに見つかった。食べ放題のコース料理は一人では余る、そう敬遠したはずなのに、歩いていたら向こうから現れた。私が行く道沿いに、うまい具合に建っているのである。今日の定食は麻婆豆腐、580円とある。豆腐で体力が回復するだろうか、と懸念しながらせっかくだからと今日の定食を注文する。中国人の女給は一瞬不思議そうな顔をして、私の日本語を訊き返し、二度目に笑顔で頷いた。ハイ。マーボードウフ。


 和解論。
 和解には次の3要件がなくてはならない。
 1に契約であること。
 2に争論の決着を目的とすること。
 3に互いに勘弁をなすこと。

 
 1889(明治22)年7月、梅健次郎は「和解論」(De la Transaction)によってドクトゥール・アン・ドロワ(法学博士)の学位を授かった。さらにこれによってリヨン市よりヴェルメイユ賞牌を贈られ、同論文の市費出版という栄誉も受けた。今もフランスでは法律百科事典に引用されている。
 その梅健次郎の日本民法和解論によると、和解するために欠かせない3要件の一つとして、「互いに許しあうこと」を挙げている。もしそれができなければ、たとえ裁判で決着をつけようが、契約書にサインをしようが、お互いが争いの解決をどれほど望んでいようが、すべて無駄なのだそうだ。
580円の麻婆豆腐はすぐに私のテーブルに運ばれた。日本の大手飲食店のチェーン店のように、これもレトルトか知らん、作りたての熱々だと感じられたが、少々味音痴なので本当のところはどうかと思う。それでも、ちょうど昼時のこと、日曜だというのにサラリーマン風の男たちがやってきては、定食を注文する。地元で人気の店なのだろう。
 日本経済の中で戦う男たち、彼らの腹を満たし、体力を回復してくれるのが、この麻婆豆腐を始めとする安価な四川料理なのだなぁと実感したら、ふと感慨深い思いがして、尖閣諸島くらいあげてもいいのではないか、と傲慢にも思った。

 もしも、漁業権に関して、それと領有権の主張が決して沖縄には及ばないこと等、日本と中国の間で何かしらの契約が結べて、かつ互いに争いの決着を望んでいて、そして双方に許し合えるならば、尖閣諸島になどこだわらなくてもいいではないか。
 もちろん中国の主張にはなんの裏付けもないのだろうが、和解できるならば、したいものだと思った。
 けれど、絶対に、中国は日本を「勘弁をなす」ことはないだろう。過去にも契約をし、決着を求め合ったのだった。それで今があるのだった。


 女給は独りで1階と2階を行ったり来たり。忙しそうだった。会計を頼むために2階に向かって大声で叫ぶ。「ご馳走様です」。麻婆豆腐は、とても、美味しかったです。
 笑顔を張り付かせて降りてきた彼女は、何も語らぬままレジを開けて、420円の釣り銭を素早く渡す。本当に表示価格通りなのだと拍子抜けした瞬間。レシートを頼むことさえ忘れてしまった。



























 護国寺には、和解論の梅健次郎を始め、大隈重信、山田顕義、山縣有朋・・ 多くの偉人の墓がある。紅葉決戦半ばで麻婆豆腐を食べる羽目になったのは、この墓を探し求めたせいでもあった。
 本道の背後、左右の敷地に広がる墓地は、大きい。偉人の墓の写真を頼りに歩き回れど、なかなか見つけることはできなかった。一つ一つの墓を見ながら歩いている、カラスがしきりに鳴いていた。目の前を古老の男が独り歩いている、彼が角を曲がると、ついに誰もいなくなった。
 一つ一つの墓には花や酒が手向けられている、もしくは赤い実の生る低木やら山茶花が。墓地の敷地の黄金の銀杏、春には桜も咲くのだろう。
 この国は死者の国だ、と言ったのは誰だっただろうか。一つ一つの墓の者の人生を思った。ここで、すでに亡き彼らは最大限に敬われていた。また墓を介して、その関係性の中で、彼らは未だこの世に結ばれていた。
 ぐるりぐるりと墓地を歩いている。偉人の墓はなかなか見つからない。花と水桶を持って連れ添う夫婦や婦人たちと何度か擦れ違った。

 墓を見つけてどうなるものか。そう思い始めたが、ここまで見つからないと意地になった。
 どうにかして、一言、挨拶をしたいものだ。近代日本の建国に貢献した彼らに礼が言いたいものだった。

 翌日、筋肉痛に悩まされるまで、カラスの騒ぐ墓地をぐるりぐるりと歩き続けて、最後の最後に私が見つけた唯一の墓は、明治の建築家、ジョサイア・コンドルの墓だった。
 
 コンドルの主な建築物。
 鹿鳴館(1883年)、ニコライ堂(1891年)、三菱一号館(1894年)、岩崎久弥邸(1896年頃、湯島、旧岩崎家庭園)、岩崎弥之助邸(1908年、高輪、三菱開東閣)、三井倶楽部(1913年)、島津邸(1915年、清泉女子大学)、古河邸(1915年、旧古河庭園)・・・

 近代日本に貢献した日本人ではなくて、なぜか英国人。がっかりした。それでもやっと偉人の墓を見つけて嬉しいような複雑な心境。また護国寺は大隅重信や山田顕義の墓には何の指標もないくせに、コンドルの墓の前には立派な文京区教育委員会の標が立てられているのだった。これなら誰でも見つけられるだろう。

 コンドルの墓に挨拶して、墓巡りを終えようとすると、異人の夫婦連れに出くわした。色が白い。おそらく英国人。猫を撮っている私の隣で、(猫が)可愛いと嬉しそうに頷いている。角の向こうのジョサイア・コンドルの墓を指差して、高く笑う。
 彼らは雑司が谷霊園から歩いてきたのだそうだ。霊園の偉人の墓の名前を列挙していく。夏目漱石、小泉八雲・・ 猫と同じくらい彼らの墓が好きなのだ。

 「『ボクハネコ』ネ!」

 人の良さそうな彼らはしきりに笑顔である。体躯のいい赤ら顔のご主人とご婦人。ご主人が上機嫌で猫と偉人の話を続け、ふと途切れると婦人はすかさず近付いて来て、手のひらを向けてくるのだった。その上には抹茶味の飴が3個乗っている。彼女は日本のお茶が大好きなのだそうだ。礼を言って、3人で一つずつ頂いた。
 オリンポスのカメラも見せてくれた。昔はライカだったが、今はオリンパスだとおどけて言う。軽量な薄型のコンパクトカメラ。半ば強引にカメラケースから引っ張り出して、彼らの写真を撮ってあげた。

 写った写真を見て、また笑顔。
 猫は私たちから5メートルは離れてから、ころりと倒れて、腹を見せた。
 カラスはすっかり静まり返っている。







 彼らと別れたあと、紅葉はなおざりに撮った。もう十分満足していた。
 結局、紅葉決戦に勝ったのか、負けたのか。思ったよりは染まっていた。東京の護国寺の秋を楽しんだ、それだけの話だった。四季のある日本はいい。


 鶴は千年亀は万年― そう言われるように、ここを潜ると病気にならず、長寿でいてほしいという願いが込められた門、不老門。形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものである。
 墓の話には続きがあって、帰る間際、この不老門の下で、また私は別の地元人(50代程の男性)に捕まるのだった。今度は日本語でまくし立てられたので、いやでも理解できた。雑司が谷庭園は歩いてすぐだということ。
 初代江戸家猫八、小泉八雲、ジョン万次郎、竹久夢二、東條英機、永井荷風、夏目漱石、島津一郎、大川橋蔵、大山倍達・・ そこには偉人というよりは有名人の墓が多いこと。

 「東條英機の墓には絶対近寄らない。妙な愛好家に出くわしたら怖いでしょ」

 一つ一つの墓の人生を思った。

 「ところで、山縣有朋のお墓を見つけられないのですが、どこにあるでしょう?」

 「さてね、いろいろ行くから記憶がこんがらかって」

 偉人の墓と、境内に住むという猫たちの話が、やはり続くばかりだった。







☆出典☆
法政大学図書館所蔵梅健次郎
護国寺不老門



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